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新弟子物語~プロレスラーを目指したある男の物語~

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(はじめから並び替えた再編集版です)

  1. プロレスは、八百長でインチキか?それとも真剣勝負なのか?とう言うような会話はプロレスを語る上で必ず出てくる内容です。
    確かにK-1やプライドなどの格闘技と比較するとショー的な要素が強いのですが、プロレスと格闘技は、別の物としてご理解を頂きたいと思います。
    むしろプロレスは、ミュージカルやサーカスに近いかもしれません。
    しかしどんなエンターテーメントであれ、人に芸事を披露するのには命がけの訓練が必要とされるのです。
    この物語は、プロレスラーを目指したある男の実体験を書き込んだ内容であり、以前プロレスラーのジャンボ鶴田さんのHPや調気堂のHPで書き込んだものを更に詳しくまとめたものです。
    筆者の記憶を辿りながら書き込むので見苦しいところがあると思われますので、何とぞご了承ください。
  2. 1967年(昭和42年)1月。今から40年前、私は父茂と母美智子の長男として産声をあげました。
    母の話によると私が胎内にいた時から’次は絶対男の子だ!’と確信していたらしく名前も『誠』と決め付けていたらしいのです。
    まだ当時の医学では胎内の子が男女の判別が出来ない時代だったので逆に‘やま勘’とうのが最も冴えていたかもしれません。
    そして産声をあげた時の体重は、3000グラム。当時としてはかなりのジャンボ赤ちゃんだったとのこと。
    新年明けて直ぐの出産だったので母もさぞかし大忙しかったと思います。
    この可愛い?赤ちゃんがのちのち両親を困らせる?子供になろうとは考えも付かなかったことでしょう。
  3. 私の故郷である横浜は、市の郊外で緑に囲まれた環境でした。
    まだ当時は、相鉄いずみ野線も走っておらず唯一の交通手段がバスであり、自動車も少ないのんびりとしたところでした。
    小さい頃の私は、体も比較的弱く、よく母親に病院に連れられた事もありました。また、気も小さかったのでよく近所の友達からもいじめられて泣かされて家に帰ったこともしばしばありました。
    幼い頃の私の顔がまん丸だったこともありまして当時は、‘あんぱん‘というあだ名で呼ばれていて、『や~い!あんぱん!』っと呼ばれるたびにムキになって怒っていたので周りの友達は面白がって余計に私をからかうのでした。
    余談ですが「あんぱん」というあだ名でしたので、あんぱんは、大嫌いでした。
    小さい頃のわたしは例えて言うならば、ドラえもんに出てくるのび太みたいな性格でした。
    体が弱く気の小さい子供だったので、ごく自然に強い者への憧れが生じたと思います。
  4. 幼少期によくいじめられたことによってより強い者への憧れがごく自然に生じ、他の子供たちと同じように『仮面ライダー』や『ウルトラマン』は自分にとっての最高のヒーロでした。
    丁度時期的にもテレビでヒーロものが全盛期で、毎日のようにテレビではヒーロものが放映されていましたので夢中になってテレビを見ていたような気がします。
    余談ですが、いつの時代でも人は皆ヒーロを求め、またヒーロになりたがっているのではないでしょうか?多分今でもヒーロに対する憧れは変わらないと思います。
  5. 私が初めてプロレスを見たのは、姉が女子プロレス中継を見ていたときにたまたま一緒に見たのがきっかけです。
    当時はビューティ・ペアーが大活躍していたときでしたが、まだプロレスというものが分からず、ただプロレスの中で繰り広げられる技の応酬が仮面ライダーのアクションシーンと同じように見えたのでした。
    何せミサイル・キックがライダーキックに見えたので驚いた感じに受け止めたと思います。
    まだこの当時は小学校の低学年で、プロレスには関心はありませんでした。
  6. 幼稚園・小学生の時は、比較的おとなしく周囲からよくいじめられましたが中学校に入学してから開き直りもあるのか自分自身も大きく変わったような気がします。
    中学に入るまではそれほど運動をしたこともなくただ友達と野球をしたり、自転車で走り回ったりしてごく普通の子供でしたが、中学に入るや柔道部に入部しました。
    強いものへの憧れは、小さい頃からありましたがその他に柔道に興味があったのは昔アニメで放映された「いなかっぺ大将」の影響もありました。
    あの「いなかっぺ大将」の主人公である大ちゃんこと風大左ェ門の気は優しくて力持ち(※注ドカベンではありません。)の生き方に共鳴?したのも大きな原因です。
    何はともあれ中学生活が始まったのです。
  7. 中学校に入り、迷うことなく柔道部に入門しましたが練習はとても厳しいもので最初は、ひたすら筋力トレーニングの連続です。
    ランニングや坂道ダッシュ、腹筋・背筋運動、手押し車、腕立て伏せ、肩車スクワットなど運動経験がない新入生にとって過酷ともいえるトレーニングの連続で最初は20人近くいた仲間も次々と辞めていき、最後に残ったのはわずか5~6名になってしまいました。
    私も仲間と同様に柔道部を辞めようと顧問の荒川先生に懇願したのですが、荒川先生からは「佐藤!お前だけはやめないでくれ。」と説得されてしまい、泣く泣く?柔道部に残るようになったのですが結果的に柔道部に残ったのが後のプロレス入りになったのではないかと思います。
  8. 柔道の稽古で一番きつかったのが受身の練習でした。
    中でも一度大きな怪我をしたことがあります。それは、3年生の先輩から低くそしてとても早い高速の体落としで投げられたときに頭から落ちて大怪我をしたのでした。
    その瞬間、頭の中には血がたまり、頭をさわるとぶよぶよと軟らかいのです。
    その後病院で精密検査をした結果、脳には異常がなく、血を抜いただけでしたが一歩間違えると植物人間になるところでした。
    運良く、植物人間にはなりませんでしたが格闘技の恐ろしさを初めて体感したときでもありました。
  9. 中学生になってから本格的にプロレスを見始めるようになったのですが、ちょうどプロレスが学校全体にはやり始めたのがそもそもプロレスを見るきっかけになったのです。
    特に休み時間になると、教室の隅っこやローカでプロレスごっこが行われていました。
    また、下敷きにはプロレスラーの写真を入れたり、ノートにはプロレスの落書きを書いたりして、おとなしくてとても真面目な?私がプロレスにはまってしまったのです。
  10. 生まれて初めてプロレスを生で観戦したのは、ちょうど昭和55年1月18日後楽園ホールで行われたジャイアント馬場選手が3000試合連続出場記念イベントとしてヴァーン・ガニア選手とのAWA世界ヘビー級選手権でした。
    まだお正月ムードが漂う当日は、早朝から後楽園ホールで待ち並んだのを明確に憶えています。
    後楽園ホールの中に入ると、そこにはリングが置かれていてこれから始まる大イベントの雰囲気に思わず飲み込まれてしまいました。
    後にこの会場をメインとしている全日本プロレスの一員になるとは、まだ考えもしていませんでした。
  11. 中学生になってからプロレスを観るようになったのですがそれまでは、鉄道マニアであり、よく電車の写真を撮りにいったのですがそんなある時、仲間と一緒にいつものように電車の写真撮影のために出かけたときでした。
    道路を自転車で横断しようとしたときに視界が悪く、対向車線に自動車が来るのが分からず自動車に撥ねられてしまったのですが、普通ならば大怪我をするはずが運良く無傷だったのです。
    自動車に撥ねられた瞬間、自転車ごと宙に舞い、地面に叩きつけられたのですが全然無傷だったのです。
    自動車の運転手は、心配そうに私に歩み寄ってきましたが、私はむしろ運転手に謝ったので運転手も安心?したのではないかと思います。(さずかし運転手もびびったことでしょう。)
    今から思うと、あの時無傷で済んだのも柔道の受身が自然に出たと思いますし、プロレスラーになるために?生まれてきたのかもしれません。
  12. 中学2年の秋から柔道部の主将に選ばれてから益々プロレス熱に火がつきました。
    何せ主将という特権を活かして、柔道の稽古前の準備体操代わりにプロレスごっこをしていましたからね。
    また一年後輩たちも皆プロレスファンで、畳を利用してブレン・バスターなんてやっていました。
    うわさを聞き付けた他の部活の仲間たちも体育館に集まり、柔道場全体で大プロレス大会が行われました。
    まさに柔道場がリングに変わり、壮絶?なバトル・ロイヤルとなったのでした。
  13. 中学2年の後半頃にひとりの転校生がきました。その転校生がまた異常なほどのプロレスファンでありまして、クラスは別のクラスなのですがたちまち学年でも有名になるほどのプロレス狂なのです。
    その転校生とは、3年生になったときに同じクラスになったのですがそれがまた大変なことになったのです。
    当然休み時間はプロレスごっこになるのですが、なんとフォークを持ってきて額や腕を刺せと言うのです。
    私は、いやいやながらフォーク攻撃をしたのですが転校は、悲鳴をあげながら喜んでいるのです。
    一歩間違えるとSMの世界になってしまうのですが、転校生はテリーファンクの大ファンであり、完全にブッチャーVSテリーファンクの再現?になったのです。
    当然私がブッチャー役になったのはいうまでもありません。
  14. 中学校時代の柔道部で得意だった技は、寝技に引きずり込んで袈裟固めで極める戦術です。
    中学生の柔道には、関節技が禁止されていますので袈裟固めなどの固め技がとても有効な技になるのです。
    特に袈裟固めは、得意な技で、一度クラスの仲間に自分の袈裟固めから逃れることができたら賞金1000円をやると言い出し、早速クラスのメンバーが私に挑戦してきたのですが私は、挑戦をあえなく退けたのですがさすがに何人も相手にすると体力が消耗し、最後の刺客?に技をかえされてしまい、泣く泣く賞金を出すしかありませんでした。
  15. 私は、プロレスファンになる前は鉄道ファンで、将来は電車の運転手になるのが夢でもありました。
    親を始め中学の担任の先生も私が鉄道マンになると思われて、進学も鉄道学校で有名な岩倉高等学校に進学するつもりでいたのですが、学校の成績が思わしくなく、同じ工業高校である相模工業大学付属高等学校の進学を勧められ、同校の受験をしたのでしたが思わぬ事態になってしまったのでした。
  16. 高校進学の際に参考となる内申書の内容が思わしくなく、希望とした鉄道学校である岩倉高等学校の受験が難しいということで、代わりに藤沢にある相模工大付属高等学校への進学を勧められて受験したのですが試験結果が思わしくなく、不合格通知が届いてしまったのです。
    その後、受験した学校から呼び出されて、しぶしぶ母親と同行して面接をしたのですがとても屈辱的な内容でした。
    それは、「君のこの成績では残念ながら不合格だが、こんな成績だと他に行く学校がないんでしょ。仕方がないから補欠入学にするよ。」という内容でした。
    いよいよ行き場がなくなってしまったのでした。
  17. 補欠入学という屈辱的な言葉をもらい物凄く落ちぶれはしたものの、一応高校には入学できたのでしたがやはり補欠入学というものはあまり嬉しくはありません。
    晴れて高校生としての出発をすることができましたが、そのような屈辱的な入学を機に私の生活は180度入れ替わりました。
    それまでろくに勉強もしなかったのですがいきなり猛勉強をし、最初の中間テストではなんとクラスで1位をとったのです。
    このときに、何事も命がけで行えば不可能なことはない。と悟りました。
    そしてこの自身が後々プロレスラーになるための決意に繋がったのではないかと思います。
  18. 小さい頃から電車の運転手に憧れて、それを目指して高校に進学したのですが、高校に入ってから将来に対する考え方が大きく変わったのでした。
    それは、現実に電車の運転手という職業を考えてみるととても責任感が重く、尚且つ肉体的・身体的リスクを負うことを感じとり、自分には不向きだと考え始めたのでした。
    そして鉄道に対して興味が薄れてきた分、より一層プロレスに対する情熱が強くなってきたのでした。
  19. 高校に入学してからも柔道は、続けるつもりでいましたが何と高校には柔道部が存在しないのです。
    私が入学した相模工業大学付属高校(現湘南工科大付属高校)は、県内でも優秀な体育会系の学校でもあったのですが不思議と柔道部がないのです。
    同級生の何人かに声をかけて、一時は柔道部を立ち上げようともしましたがとても難しいような状態でしたので諦めて家の近くにある柔道道場を探した結果、二俣川にある大竹柔道館に入門をすることになったのです。
  20. 学業と柔道とプロレスが高校生活の全てだったといっても過言ではありません。
    特にプロレスは、当時出始めたビデオデッキはプロレス中継を録画するためにわざわざ購入したり、それまでは鉄道写真に燃えていたのがすぐさまプロレス会場でのレスラーの写真を撮り続けたり、プロレス雑誌であった『週刊ゴング』は毎週購入したり、レスラーのテーマソングを集めたりしていました。
    ちなみに当時は、プロレスのテーマソングだけのLPレコード(当時CDはありませんでした。)は少なく、人気レスラーのシングルレコードは売られていましたが、マイナーな選手や廃盤になったレコードを入手するのが困難であったのでよく中古のレコード店に足を運んでいました。
  21. プロレスラーのテーマソングを集めるのはとてもマニアックな内容でした。中でも入手不可能だといわれたNWAチャンピオンのテーマソングである’ギャラクシーエクスプレス’やブルーザーブロディの’移民の歌’は、マニアの中でも話題になるほど入手は困難でした。
    またミル・マスカラスのテーマソングである’スカイ・ハイ’の会場使用バージョンも入手が難しかったのですがそれは運良く中古レコード屋で見つけることができたのです。
    高校生活に入ってから完全にプロレスにはまってしまったのでした。
  22. 高校生活は、殆どプロレスに没頭していましたがついにプロレスラーになろうと思ったのは高校2年生になって決意したのでした。
    それまで単にプロレスファンだったのがプロレスラーになろうとしたきっかけは、当時飛ぶ鳥を落とすぐらいに人気のあった初代タイガーマスクの影響が強かったです。
    初代タイガーマスクは、いわずとしれた佐山聡選手ですが当時の私の身長(175CM)よりも小さい172CMくらいの身長でありながらリング上で大暴れする姿に惹かれたのでした。
  23. それは、私が高校2年生の春のときでした。
    初代タイガーマスク(佐山聡選手)の出現により、私の人生の方向性ががらっと変わりました。
    恐らく現在リングで活躍しているレスラー達もタイガーマスクに憧れてプロレスラーになったのではないかと思います。
    私もその一人であり、プロレスファンから本格的にプロレスラーになろうと決意をしたのでした。
    そして、プロレスラーを目指してひたすらトレーニングを開始したのでした。
  24. 高校2年の時にプロレスラーになろうと決意をしたのですが、それまで続けていた柔道を行う目的がプロレス入門のためになり、柔道の稽古のない日は自主トレーニングを行っていました。
    自主トレーニングと言っても当時はスポーツクラブなど近くにないので自分でバーベルセットを購入し、プロレスやトレーニングの本を見て独自に研究して行っていました。
    ランニング1時間・腹筋300回・腕立て伏せ30回5セット・ヒンズースクワット1000回とウエートトレーニングなどをしていました。
    正にプロレスラーへの道へと歩み始めたのでした。
  25. 私にとっての高校生活は、正にプロレスラーを目指すためにひたすらストイックな生活を続けていました。
    週3回の柔道場に通い、他の日は帰宅したらすかさず筋力トレーニングを行い、更に学業をおろそかにしてはいけないと思い、時間があったらひたすら猛勉強です。
    そのストイック?な生活を続けていたおかげでクラス内の成績は、常に10番以内をキープしていました。
    特に数学のテストは、同じクラスメートの仲間には負けまいと、お互いに張り合っていたくらいです。
    もちろんプロレス観戦は、全日・新日とわず絶えず観に行っていました。
  26. 1980年代のプロレスは、言わばプロレスの黄金時代でもありました。続々とスター選手が現れて、毎日のように熱い戦いが繰り拡げられていましたので高校生であった自分も夢中になるのは当然だったかもしれません。
    プロレスの聖地とも呼ばれている後楽園ホールと蔵前国技館は、私の青春?時代に足を踏み入れた会場でありました。
    中でも後楽園ホールの2階の立ち見席は、マニアックなファンの席取り合戦の場でもあるのです。
    後楽園ホールに足を踏み入れたことがある方にはご存知だと思いますが、会場そのものが小さくてどこの席でも充分にプロレス観戦が楽しめるのですが中でもよく見えるのが2階の立ち見席でして、しかも値段も格安ですからお金のない高校生にとっても充分にプロレス観戦ができるのですが、さすがに人気のある席ですので早くから待ち並べなければならないのです。
    例えば午後6時半から試合が始まるとすると、朝の10時ごろから待ち並ぶのです。
    最も印象深かったのは、台風がきているのにも関わらず朝の10時から待ち並ぶのは正に時間との戦いでしたね。
  27. 後楽園ホールと蔵前国技館は、80年代のプロレスのメッカとして多くの名勝負が繰り拡げられました。
    特に蔵前国技館での名勝負は数多く行われていまして、プロレス少年だった私は殆ど通い続けたと言っても過言ではありません。
    新日本のMSGシリーズ最終戦を皮切りに、全日本の世界最強タッグリーグ戦・新日本のIWGP決勝戦・テリーファンク引退?試合・ジャンボ鶴田さんがAWAを奪取した試合、そして防衛戦などなどです。
    毎日がプロレスに釘付けの生活の繰り返しがプロレスラーになろうと決意したのも自然の流れだったかもしれません。
  28. 週3回の柔道場通いは、楽しみの一つでした。
    高校1年のときに初段をとり、2年のときに二段を取得しました。
    何もかもがプロレスラーになるための訓練だと思って柔道も一生懸命でしたね。
  29. 柔道の昇段審査のときにプロレスの技で勝った事があります。
    相手に技と投げられて有効を取られたあとにすかさず相手の腕をとり、キー・ロックを決めて逆にギブアップを取ってしまいました。
    大体柔道の試合での決めパターンは、寝技からの関節技或いは絞め技でしたね。
    今ならばさしずめ総合格闘技みたいな決め方でしたね。
  30. 中学1年から高校3年までの間にある記録を続けていました。
    それは、無遅刻・無欠席・無早退の記録でした。
    しかしながらその記録は高校3年の6月に敗れてしまいました。
    昭和58年6月14日。そう、この日行なわれた新日本プロレス第2回IWGP決勝戦のアントニオ猪木VSハルク・ホーガンの試合を40度の高熱を出しながらもプロレス観戦のために蔵前国技館まで足を運んだのでした。
    この日は、朝から体調を崩して泣く泣く学校を早退したのでしたがプロレス観戦だけは諦めずに学校の友達と待ち合わせをして国技館へ足を運んだのでしたが、結果はご存知の通り試合後の観客の暴動により会場内は大荒れになってしまい、それが原因で朝からの高熱がたたり、翌日と翌々日の二日間は、学校を欠席せざるを得ませんでした。
    世紀?の大記録がいとも簡単に崩れてしまったのでした。
  31. 高校の授業に必須科目で週1回のクラブ活動を選択できるのですが、プロレスの空中殺法を学びたかったのでトランポリンを選択しました。
    トランポリンを使ってのバック宙運動は、将来プロレスラー?になるために必要なサマーソルトやムーンソルトを使う基礎になりますからね。
    体操部の一人がお手本を観せてくれた技は、いわゆるプロレス技であるムーンサルト・プレスだったので思わず「かっこいい!」って思ってしまいました。
  32. 学校から家に帰ってからは、自宅で筋力トレーニングを行なっていたのですがある時に、腹筋運動をし過ぎて腰を痛めてしまったのです。
    腹筋運動を行なうときには必ず膝を屈曲させてなければならないのですが、そのときは膝を屈曲させることなど知らなかったので腰を痛めるのは当然だったかもしれません。
    後にサッカー部の人にこのことを話したら、正しい腹筋運動を教えてくれました。
    腰のほうは、数日間湿布薬を貼りましたので痛みはとれました。
    正しい運動方法を知っていくというのはとても大切ですね。
  33. 高校3年生になっていよいよプロレスラーへの夢が現実的に考えるようになりました。
    プロレスラーになるための団体選びですが、今のように多団体時代ではなく、当時は3つしか団体がありませんでした。
    UWFと新日本プロレスと全日本プロレスでした。
    この3つの中のひとつを選択をしなければなりません。
    これは就職活動と同じことが言えると思いますが、会社を選ぶときにただ好きとか嫌いだけで団体を決めるではなく、様々な観点で選んでいかなければあとあと後悔しますので団体選びはとても慎重でした。
  34. さて団体選びですが、プロレスのスタイルで一番好きな団体はUWFでしたが、会社経営的にみると、いつつぶれてもおかしくないような状況でしたのでまずは却下です。
    次に新日本プロレスですが、新日スタイルも好きで会社的にも安定していたのですが当時新日本プロレスの営業本部長であった新間寿氏の存在が気になりました。
    猪木さんも好きでよく新日本の会場にも足を運びましたが、新間氏がマスコミや新日本の興行を通じて全日本や馬場さんを批判したところが気になって仕方がありませんでした。
    当時は、親日と全日の興行戦争の真っ只中なのはいいのですが、興行戦争なんて会社同士の戦いであって会場に足を運ぶ人間にとってはどうでもいいことなのに、それを全面に出している新間氏のやり方が気に入らずこれも却下です。
    そうなるとやはり馬場さんの率いる全日本プロレスしかありません。
    そして、全日本入りを決意したのでした。
  35. 全日本プロレスに決めた私は、早速履歴書を全日本プロレス宛に郵送をしたのですがやはりというか当然と言うべきか書類が返されてしまいました。
    全日本プロレスの入門基準は、身長が180CM以上ですから175CMしかない私の身長では書類審査の時点で却下されるのは覚悟のことでしたから履歴書が返されてもおかしくはありませんが、それから入門への厳しい道のりが始まったのでした。
  36. 高校3年の4月から9月まで毎週全日本プロレスに履歴書を送り続けたのですが、それでも入門許可がおりませんでした。
    ちなみに、こんなに全日本プロレスへ履歴書を送り続けた人は、後にも先にも私だけらしく、後日全日本プロレスに入門したあとに当時全日本プロレスの広報部長である飯山和雄さんからこの話を聞きました。
    まさに執念のひとことですね。
  37. 高校3年の夏が過ぎて進学か就職かと同級生達は、そろそろ進路について真剣に活動をしているなかで私だけが進路が決まってはいませんでした。
    それはそのはず、プロレスラーになることしか頭になかったからです。
    私の母校は大学付属の学校でもあるので比較的進学がしやすいのですが、それでも高校3年の夏には皆大学受験のための補修を受けるのです。
    しかしながら大学進学など頭になかった私は、大学受験のための補修など受けるつもりは毛頭もないのです。
    大学への進学も希望せず、尚且つ就職活動もしない私の態度にいよいよ担任の先生が聞き出してきたのでした。
  38. 担任の田中先生が高校卒業後の進路について尋ねてきたときに遂に打ち明けました。
    「実は、プロレスラーになりたいんです!」
    すると田中先生は、「そんなにプロレスラーになりたかったら事務所に行ってくれば!」って言ってくださったので逆に驚きました。
    てっきり反対されると思っていましたからね。
    そしてついに決断をしたのでした。
  39. どうしてもプロレスラーになることを諦め切れない私は、学校の先生が公認で学校を早退し、当時東京の六本木にあった全日本プロレスの事務所にアポイント無しでいきなり押しかけるようにして訪問しました。
    事務所には故百田義弘さんがいらっしゃって、私の面接をしてくださいました。
    いよいよプロレスラーへの道が具体的になったのでした。
  40. いきなり全日本プロレスの訪問でさぞかし百田さんは驚かれたらと思いますが、私も必死でしたからね。
    それで面接の席で私は、ヒンズー・スクワットを行いまして全日本入りを希望をしたのでしたが、百田さんからはスクワットのやり方がおかしいこと指摘されまして、もっと深くスクワットを行なうように言われました。
    余談ですが後に全日本プロレスに入ってヒンズー・スクワットを行いましたが、普通にやって何も言われませんでした。多分、百田さんは面接で入門を断るためにあのように指摘されたのだと思います。
  41. 百田さんと面接をした結果、冬休みに合宿所に行って練習をしてもいいとの許可を得ることができました。
    いよいよ全日本プロレス入りが本決まりとなりました。
    余談ですが、この日事務所にはダイナマイト・キッドとデイビー・ボーイ・スミスとミスター・ヒトさんが訪れていました。(私の入門とは全く関係がありません。)
  42. 高校の担任だった田中先生に面接の報告をしたら、田中先生はとても安心した様疎く子でした。
    ところが担任の先生には納得してもらっても肝心な両親からの許可がもらえないとプロレス入門ができません。
    両親には当然自分がプロレスラーを目指していることも全く話してはいませんし、まして学校の授業を抜け出して全日本プロレスに面接に行ったことなど言語道断です。
    プロレス入りまでの試練がまた続くのでした。
  43. 全日本プロレスへの面接?も無事に終わったのはいいのですがこのことを両親に報告をしなければなりません。しかしながら両親には秘密にしていたことでしたがここは潔く思い切ってプロレス入門のことを話しました。
    両親にとっては正に寝耳に水の出来事でした。
  44. 遂に両親にプロレス入りをしたことを薄情しました。当然両親は、驚き、当然のことながら反対されました。
    それでも冬休みに全日本の道場に通うことを無理やり納得させたのでした。
  45. なかば強引にプロレス入りを希望したのでさすがの両親も諦めて、黙認でプロレス入りを許してくれました。
    そして冬休みになり、早速当時世田谷の砧にあった全日本プロレスの道場及び合宿所を訪れたのでしたが今度は、全日本プロレスの事務所から合宿所のほうに連絡が伝わっていませんでした。
    恐らく面接をしてくださった故百田義弘さんは、私が本当に合宿所に行くとは思わなかったので合宿所に連絡をしなかったのではないかと思います。
  46. 冬休みに入り、いよいよ全日本プロレスの合同練習に参加するために、当時世田谷の砧にあった全日本プロレスの道場を訪れました。
    合宿所に行ってみると、寮長のターザン後藤さんを始め、川田さんとデビュー前の小川さんらがいらっしゃいました。
    そして合同練習が始まる午前10時に近づくにつれて、故マジックドラゴン(ハル園田)さんやタイガーマスク(三沢)さんが道場に現れてきました。
    私にとって今まで雲の上のような方々とお会いしたわけですから緊張するのも仕方がありません。
    しどろもどろに挨拶を交わしながらいよいよ合同練習が始まったのでした。
  47. 練習は、他の選手と全く同じメニューで始まりました。
    すでに私は、プロレスラーになるためにトレーニングを積んできましたので特に違和感がなく、なんなくトレーニングメニューをこなすことができたのですが、ブリッジ運動で脚を元に反す運動が出来なかったのがとても悔しく、練習後家に戻ってからも布団の上でブリッジ運動の練習を行いましたが思うようにうまく出来なかったのがとても印象に残ってます。
    そして次々とトレーニングメニューをこなし続けたのでした。
  48. 半ば体験入門的になってしまった感がありますが、私の中では完全に全日本プロレスの一員になった気分でしたが実際は入門が認められたわけではありませんでした。
    その証拠に、練習後の食事の準備を手伝っていたときに先輩方がくつろいでいる居間に行った瞬間、当時2代目タイガーマスクだった三沢さんは、顔を隠していました。
    もちろん2代目タイガーマスクは、デビュー時から三沢さんとは知っていましたがやはりそこはプロレス関係者と一プロレスファンだ全った私との間には、わだかまりがあって当然だったと思います。
  49. 体験入門ではありましたが、毎日道場に通うのがとても楽しくて仕方がありませんでした。
    道場に通う度に次々とスターレスラーに会えるのですからこんなに嬉しいことはありませんでした。
    そして天龍さんと初めてお会いしたときは、さすがに武者震いがしました。今まで雲の上の存在だった人と一緒に練習ができたのですから無理がありません。
    しかしながら道場の練習メニューは、日に日に厳しくなってきたのでした。
  50. 体験入門とはいえ殆どが道場の練習メニューをこなしていました。最初は、スパーリングには参加させてもらいませんでしたが、のちのちスパーリングにも参加させて頂きました。
    そんなある日、スパーリングをしているときにもう一つリングの片隅で川田さん達がスパーリングをしていたときに運悪く私の足が川田さんの顔に当たってしまったのです。
    そのときの川田さんの形相が鬼のように変貌し、すぐさま拳が飛んできました。
    当然のことながら謝りましたがさすがプロの体育会系ならではの一面でした。
  51. 高校3年の冬休みの間だけですが断定的に全日本プロレスの一員になれたことがとても嬉しかったです。
    そして稽古納めの日に道場の大掃除を手伝い、最後に杯(一応未成年でしたので一口だけ飲みました。)を交わして無事にその年を終えることが出来ました。
    年も同じで同期でもある小川良成さんとはお互いに共感をもつようになり、いつしか良き仲間でありライバル意識が芽生えたのではないかと思います。
    そして年が明け、いよいよプロレスに入るための交渉を両親にしなければなりませんでした。
  52. 冬休みが終わり、いよいよ両親にプロレス入りを説得しなければなりません。ところが両親だけでなく親戚までも議論になってしまったのです。
    母の実家に親戚が集まり、私のプロレス入りに関する親戚会議が行われたのです。
    待つ事約2時間の結果、「プロレスをやらせるだけやらしたら。」ということになりました。
    そして両親及び親戚から認定を受けて、晴れてプロレス入りが決まったのでした。
  53. 両親及び親戚の了解を得てついに念願だった全日本プロレスに入門が決まりました。
    学年末試験もおわったらまた再び全日本プロレスの合宿所に通い始めたのです。
    そこには新しい仲間2人が加わっていたのでした。
  54. 新しい仲間は、二人とも年下で高校を中退して全日本プロレスに入門してきました。
    これで私を含めて練習生が4人になり、合宿所がにぎやかになってきました。
    私が昨年の暮れに合宿所に通ったときは、練習生は小川良成さんの一人しかなく、とても寂しい感じでしたが一挙に増えたわけですからお互いにライバル視しながら新しい生活が始まりました。
  55. 練習生が一挙に4人になったので当然お互いにライバル意識は、相当なものです。それが重要なんですね。お互いにライバル意識をもやしつつ、また励まし合うのは何ともいえないさわやかなものですね。
    スパーリングになると皆怖い先輩の餌食になりますね。川田さんやターザン後藤さん・故ハル園田さん・2代目タイガーマスク(まだ、この時点でわたしは正式に全日本の一員ではありませんのでタイガーマスクの正体は、三沢さんだと知っていますが、一応私の前ではマスクを被っています。)は、常連の先輩方でスパーリングになると我々練習生の叫び声が近所迷惑?になってしまうのです。
  56. 練習生が一挙に4人にもなったので当然練習にも気合が入ります。特に先輩たちとのスパーリングは、おたけびの連続です。
    特に悲鳴を声高くあげていたのは、練習生の中で一番先輩である小川良成さんです。
    小川さんは、もっともデビューが近い人でもあったので余計に先輩方からかわいがりを受けていたと思います。
    我々新人の3人とは別格に先輩方のかわいがりは、小川さんに集中していましたね。
    今でこそプロレスリング・ノアでは欠かせないテクニシャンである小川さんも当時は、デビュー前の18歳の青年でしたからね。
    小川さんだけでなく、当然私たちも先輩方のかわいがりを受けていました。
  57. デビュー直前だった小川さんが、先輩方からのかわいがりを一番受けていましたが、我々は別の意味でかわいがりを受けていました。
    というのも練習生の一人が物凄いワキガでして、その練習生とはスパーリングをするのはとてもいやでした。
    ただでさえワキガの臭いで強烈なのにその練習生は、ワキガの臭いを消すために消臭スプレーを練習前にするのですが、その消臭スプレーの臭いがワキガの臭いと混合するので余計悪臭が漂うのです。
    その練習生と一番スパーリングをしていたのが何を隠そう、川田さんだったのです。
    川田さんは、我々をかわいがるつもりが逆に洗礼?を受けていたのでした。
  58. 川田さんが新弟子の逆洗礼?をよく受けていましたが、勿論私も川田さんとよくスパーリングをさせて頂きました。川田さんの実力は、アマレスの国体にも選ばれたほどですからいつも私は悲鳴をあげていました。
    リング上では鬼の川田さんですが、リングをおりると良き先輩でいろいろと面倒をみて頂きました。
    川田さんはとても器用な方で、食事でも創作料理をこしらえたりしていましたね。
    川田さんとタイガーマスク(三沢さん)とマジック・ドラゴン(故ハル園田さん)のトリオはとても仲がよくて、よく3人で行動をしていました。
    現在、この3人は別々になってしまったのは寂しい限りです。
  59. 当時全日本プロレスの選手ではなかったのですがいつも合宿所で一緒に練習に参加した方がミスター珍さんです。
    珍さんは日本を代表?するコミックレスラーでしたが練習時は真剣そのものでした。
    珍さんの練習姿を見て、プロフェッショナルというのを拝見させて頂きました。また、珍さんはキャピタル・スポーツ社のアドバイサーという役職をもっていましたので、全日本プロレスのオリジナル・スポーツ・ウエアーの製作は、いつも珍さんを通じて注文をしていたみたいです。
    当時衣替えの季節になるたびに全日本プロレスのスポーツ・ウエアーが替わっていた理由は、キャピタル・スポーツ社と全日本プロレスの業務提携があったからです。
    ちなみにわたしが入門していた頃は、赤のスポーツ・ウエアーが支給されましたが夏の衣替えのときは、下地が黄に黒字のスポーツ・ウエアーが支給されました。
    このスポーツ・ウエアーに関するエピソードは、後日お知らせいたします。
  60. 全日本プロレスの入門が決定し、やっと心が落ち着いてきました。
    そして高校の卒業式を無事に終えていよいよ正式に全日本プロレスに入門するのですが、本格的に合宿所に入る前に一度馬場さんに挨拶をすることになりました。
    ちょうど全日本プロレスが新しいシリーズが開幕していましたので、私は後楽園ホールへ足を運んだのですがやはり馬場さんと初めてお会いするのでとても緊張をしていました。
    学生服をきたまま馬場さんとお会いしたのですが、緊張のあまり体ががたがた震えていたのは当然でした。
    しかしながら馬場さんは、あの笑顔で迎えて頂きましてとてもホッとした気分でした。
    そしていよいよプロレス生活が始まったのでした。
  61. 全日本プロレスの入門が正式にきまりましていよいよ合宿生活をすることになりました。
    布団や荷物を合宿所に郵送を終えて合宿所に向かっているときのことでした。
    私の心に突然不安の思いが湧いて来るではありませんか!「本当にだいじょうぶか?やめるなら今しかないぞ!」という心の叫びが聞こえてきました。
    額にはあぶら汗が流れ始め、心臓は大きく鼓動している自分は動揺を隠し切れませんでした。
    しかしながらそんなことを考えながらも無常にも世田谷の砧にある全日本プロレス合宿所に着いてしまいました。
    もう逃げることはできません。断腸の思いで合宿所のドアを開けたのでした。
  62. 世田谷区砧にあった全日本プロレスの合宿所に入寮していよいよプロレスラーを目指しての生活が始まったのでした。
    部屋は、2階の真ん中でもう一人の練習生と相部屋になりました。ちなみに2階の奥の部屋には小川良成さんともう一人の練習生が相部屋です。そして2階の手前がターザン後藤さんの部屋で、1階の奥の部屋が川田さんの部屋です。
    現在砧には合宿所はなく、横浜の青葉台にあります。当時のうす汚い合宿所は今ではとても懐かしく思います。
  63. 自分を含めて4人の練習生になり、寂れた合宿所はとても活気溢れるようになりました。
    これで合宿所は、寮長のターザン後藤さんと川田さんと練習生4人の計6人になりました。
    年末に合宿所に行った時は、たった3人しかいなかった住人が一挙に倍になったのですから、薄汚い合宿所も要約合宿所らしくなってきました。
    そして嬉しいことにもう一人の練習生も入門が決定し、新しい合宿所生活が始まったのでした。
  64. 今回は、合宿所での一日の予定についてお話します。
    朝7時~8時     起床及び清掃(合宿所・道場)
    9時頃~11時   ちゃんこ鍋の買出しと下作り(ちゃんこ用のたれ作り)
    11時~14時     合同練習
    14時~14時半頃  食事の準備:大きな鍋に野菜や肉類を入れて煮込み、茶碗の準備等
    ※先輩方は、その間シャワーを浴びています。
    14時半頃か15時頃~16時頃 食事
    16時頃~17時頃  食事の後片付けとシャワー
    17時頃~19時頃  雑用(洗濯等)※基本的に自由時間
    19時頃~20時頃  夕食の準備(昼食の残りに少しおかずを加えます。)※夕食は各自自由
    20時頃~24時頃  自由時間
    24時頃~25時頃  就寝
  65. 大体このようなスケジュールです。自由時間が20時頃からですが、当時の道場は 住宅街の中にあった関係で、道場で練習ができるのは18時までと決められていました。ですから20時過ぎでは道場での練習が出来ませんでした。
  66. 今回は、合同練習のメニューについてお話します。
    午前11時に道場で先輩達も集い、合同練習が始まります。
    まずは体をほぐす目的で、リング内でのジョキング・横歩き等を行い、リングの対角線を上に前転・後転・前方開脚運動のマット運動をし、柔軟体操をします。
    それから腹筋運動を300回、背筋運動を30回を5セット・後方回転を50回を3セット、レッグプレスを50回3セット、リングの各ポスト毎に手押し車及び腕立て伏せを10回ずつ、首押しを前後・左右そしてフロント・ブリッジとブリッジを行います。
    あとは、スパーリング、受身の練習、ウエイト・トレーニング、をし、最後は、ヒンズースクワットを1000回で終了です。
    大体このような内容です。
  67. レスリングの基本である‘ブリッジ‘運動ですが、高校時代にプロレスラーを目指すために雑誌でカール・ゴッチは、ブリッジ運動を毎日30分間行なったと記載されていましてので、ひたすらレスラーになりたい一心で静止した状態でのブリッジ運動を30分行なったのですが、実際に全日本プロレスに入門すると静止ブリッジ運動は、たったの3分間しか行ないません。
    なんでもカール・ゴッチさんは、静止ブリッジ運動を3分間しか行なわず、あとはいろいろなブリッジ運動を併せて30分間行なったそうです。
    ブリッジ運動のやり過ぎは、頚椎をいためやすいのでそれほど多くやる必要がないらしいです。
    そのことを知らずに高校時代ブリッジ運動を30分もしていた自分の首は、いまでもたまに痛みが生じます。
    なにごともやり過ぎは、禁物ですね。
  68. 一通りの基礎トレーニングを終えてから受身の練習が始まります。
    まずは、リングの対角線上で回転受身等の練習をし、次いでアームホイップ、ショルダースルー、ボディスラムというようなプロレスの基本技の受身の練習ですが、私はこの受身の練習が一番堪えました。
    実を言うとプロレスの練習の中で一番大切な練習が受身の練習なのです。
    毎回プロレスの試合でレスラー達はさりげなく受身をとっていますが、一歩間違えると大怪我をするのです。また、一流のプロレスラーと呼ばれる人は、皆受身が上手いのです。
    余談ですが、全日本プロレスの中で一番の受身の達人は、マジック・ドラゴンこと故ハル園田さんでした。
    園田さんの受身は、正しくプロレスの教科書といって過言ではないと思います。
  69. 前回に引き続いて受身についてお話をします。
    プロレスの練習で一番重要なのが受身だとお話をしましたが、特に全日本プロレスは受身主体のプロレスですから練習も受身主体なのです。
    組み技系統の格闘技を学んだことがあるかたならお分かりだと思いますが、一度投げられてから立ち上がるまでとても体力を消耗するのです。しかも当時の全日本プロレスは、背の高い選手が多かったので先輩がたからショルダー・スルーで投げられる時は、リングが一瞬小さく見えるのです。
    一度ジャンボ鶴田さんにショルダー・スルーを投げられたときは、2メートル以上のところからマットに叩きつけられるのですからその恐怖は言葉では言い表せられないほどです。
    最近プロレスの暴露本などが出回っていますが、プロレスの凄さは’受身の凄さ’であることをこの書き込みを通じて理解してほしいと思います。
  70. また今回も受身に関してお話をします。
    プロレスで一番重要なことは受身であることを何回もお話をしましたが、全日本プロレス自慢?の100本受身は言葉では言い表せ出来ないほど厳しい練習です。
    投げ技系の格闘技(柔道やレスリングetc)を学んだことがある方ならばお分かりだと思いますが、投げられてから起き上がるまでには相当の体力を消耗します。
    受身で打ち所を悪いと、せき込んでしまうのですがそれでも休む事は許されず続けて投げられるのです。
    新日本プロレスの練習内容はどちらかと言えば攻撃面を主体にしていますが、全日本プロレスの練習では受身が主体なのです。これは馬場さんと猪木さんのプロレスに対する考え方の違いがそのまま練習内容に表れていると思います。
  71. 今回も合同練習についてお話します。
    受身の練習の後は、‘ガチンコ‘と呼ばれるスパーリングを行なうのですが我々新弟子には技など教えてくれません。ただ先輩に関節を極められて悲鳴をあげるのです。
    そして‘ラッパ‘と呼ばれるプロレス独特のかわいがり(一種の新弟子いじめ?)があります。これは、仰向けの状態からお腹で口と鼻を抑えられるわけですから息苦しく窒息寸前まで抑えられるのです。
    このラッパ攻撃を得意にしていた人がターザン後藤さんでした。後藤さんの大きなお腹が私の口と鼻を塞ぐのですからたまったものではありませんでした。
  72. スパーリングが終わってからは各種ウエイト・トレーニングを行ないます。ベンチ・プレスとかダンベル・カール、ベント・オーバー・ローイング、ラットプルダウン、ブゥシュ・アップ(腕立て伏せ)を行なってから最後にヒンズー・スクワットを行ないます。
    このヒンズー・スクワットですが疲労度がピークに達した状態でスクワットを行いますので脚ががたがたと震えているのです。そんな状態でスクワットをしたあとの太ももの緊張度は言葉では言い表せん。
    ちなみに新日本プロレスの練習メニューは、準備体操的な感じで練習の最初にスクワットを行なうらしいです。
    全日本のようにスクワットを練習の最後に行なうか、新日本のようにトレーニングの最初に行なうのがどちらがきついのかわかりませんが、私が思うに練習の最後にスクワットを行なうほうがきつそうです。
  73. 道場での合同練習は大体午後2時位に終了し、先輩方がシャワーを浴びている間に我々新弟子は休むことがなく、直ぐに昼食の準備をします。
    昼食は、相撲と同じくちゃんこ鍋ですが相撲のちゃんこ鍋と比べてメニューのレパートリーが少なく、大まかに言って豚肉ちゃんこと鶏肉ちゃんこの2種類しかなく、そのほかにはカレーライスを作ったり、豚汁を作ったりしました。
    それまでは包丁も持ったことのなかった私ですが、プロレスの社会に入って初めて料理というものを覚えました。また、ご飯も炊いたことがなく、まして大人数のご飯など炊いたことなど当然ありません。
    何事も初めての経験であり、ご飯を炊くさいの水加減がわからず何度も失敗したことがあります。
    先輩方にとってはありがた迷惑な事で、ご飯がまずくて何度も叱られた事がありました。
  74. 今回は、プロレスラーの力の素である全日本流ちゃんこ鍋の作り方をお教えします。
    プロレス界は、力道山先生が相撲出身であったので相撲の風習がそのままプロレス界にも取り入られています。
    ちゃんこ鍋もその一つなのですが相撲のちゃんこ鍋よりも簡単で作れるのが特徴です。
    ちゃんこ鍋には鶏肉ちゃんこ鍋と豚肉ちゃんこ鍋の2種類がありますが今回は、鶏肉ちゃんこ鍋をご紹介いたします。
    まず、大きな鍋に水をたっぷり入れて沸騰させます。水が沸騰してからは、鶏肉のぶつ切りを適当に入れて再び沸騰させます。同じく肉が煮込んだら鍋蓋を開けて豆腐、キャベツ、椎茸、エノキ茸、もやしなどの野菜を入れて再び沸騰させます。鍋が沸騰したら再び鍋蓋を開けて最後にほうれん草とニラを手でぶった切って鍋に入れて完成です。
    これだけではただの水炊きですので鍋を作る前の準備として特性のたれを作りますがそれはまた次回にお話します。
  75. 今回も前回に続きちゃんこ鍋のときに使う特性たれの作り方を伝授します。
    まずは、けずりぶしにしょう油をまぶして卵の黄身だけを入れます。(卵の白身を入れると味がまろやかになりますのでお好みのかたはどうぞ。)それから適当に輪切りのねぎと青海苔を入れて塩辛くして出来上がりです。
    え?そんなものでいいの?と思われるかもしれませんが、どんぶりにちゃんこのぐを注いでできたてのたれをつけるとちゃんこの汁で味が薄められますのでご安心を!
    とても簡単なレシピですがこれがまたビールとよく合うんですよ。
    ぜひ皆様も一度お試ししてみてください。
  76. 今回は、豚肉ちゃんこ鍋バージョンについてお伝えします。
    ぶた肉バージョンは、キャベツではなく、白菜を使います。
    あとは鶏肉バージョンと同じように水炊きですから、豚肉→豆腐→椎茸→もやし・えのき茸・ねぎ・白菜等の野菜→ほうれん草・ニラの順に水炊きをし、タレは、ボールにレモン汁としょう油を適当にかき混ぜて、大根おろしを入れれば完成です。
    この豚肉バージョンも簡単にできますので是非試してみてはいかがでしょうか?
  77. プロレスのトレーニングはとても厳しいものですがそれよりも過酷の訓練が食事なのです。
    プロレスの食事は、ちゃんこ鍋が中心なのですが体重を増やすために大量の食事をしなければなりません。
    最低限のノルマとしてどんぶり茶碗にご飯を3杯以上食べなければ怒られるのです。私はもともと大食感でしたがそれでも限界以上に食べなければならなにので地獄そのものです。
    餓えの苦しみは大変ですが限界以上に食べるのも地獄なのです。
    昔、百田光雄さんは、お父さんでおられる力道山先生から大量の食事をさせられて吐いてしまったらしいのですがその吐いたものを食べさせられたそうです。
    プロレスラーになるためには皆胃潰瘍にならなければならないのです。
  78. プロレスラーになるためには体を大きくしなければならなくて、そのためには食事の量が必要であることは、前回お話をしましたが今回は、わたしにとって最高の食事量についてお話します。
    まず食事前の食前酒?として缶ビールを1缶をぐい飲みします。(※この時は、未成年でしたが・・・。)それからちゃんこ鍋とどんぶり茶碗にてんこ盛りのご飯をよそって食べます。
    てんこ盛りのご飯は、最高で6杯。ちゃんこ鍋も同じどんぶり茶碗で6杯たいらげたこともあります。
    そして食後は少し休憩し、ジューサーミキサーに牛乳とプロティンとバナナとアイスクリームを入れてプロティンジュースを飲むのです。
    今思うと、こんなに食べた自分が信じられないほどです。
  79. 正式に全日本プロレスの練習生として認められた証しとして、ユニフォーム(スポーツウェアー)と試合用のタイツが支給されたときは本当に嬉しかったです。
    ユニフォームにしろタイツにしろいずれも先輩のお古を頂くのですがそれでも本当に嬉しかったです。
    新日本プロレスの新人は、皆黒タイツ着用が義務付けられているみたいですが全日本プロレスでは時に極められてはいませんが、一応青のタイツが主流です。
    ちなみに私は、青のタイツ2枚と黒と水色のタイツを頂きましたがやはり黒のタイツが一番気に入っていました。
  80. プロレスは、相撲と同じように付き人制度がありまして全日本プロレスではジャイアント馬場さん・ジャンボ鶴田さん・天龍さんの三選手に付き人がつくのですが、馬場さんには川田さんが、鶴田さんにはターザン後藤さんが、天龍さんには小川良成さんが付き人をしていました。
    誰かの付き人になるかは会社側が決めるのですが、鶴田さんのファンだった私は密かに鶴田さんの付き人になることを願っていましたが何と馬場さんの付き人に選ばれてしまったのです。
    当時の馬場さんの専属付き人は、川田さんでしたので私はその補佐役として選ばれてしまったのでした。
  81. 馬場さんのかばん持ちとして選ばれましたが、もう一人の練習生と一緒に付き人(補佐役)をしていましたので比較的楽でした。
    そして初のシリーズ参加の前日に川田さんから馬場さんのスーツケースの中身を点検するように言われ早速馬場さんのスーツケースを開けてみると、そこには馬場さんの試合用のトランクスやリングシューズ等が入っていました。
    馬場さんのような体の大きい人の試合用具も当然ながらビックサイズなのでが改めて見ますと、その大きさにビックリしました。
    そしていよいよシリーズが始まり、後楽園ホールに向かうのでした。
  82. 格闘技のメッカである後楽園ホールの控え室に入ったとたんとても身震いがしました。
    何せ憧れの後楽園ホールの控え室ですから嬉しさと緊張が重なっているのですから身震いがして当然かもしれません。
    後楽園ホールにつくと、リングの組み立てや会場の搬出をしているスタッフや営業の人たち(このとき後の新日本プロレスのレフェリーになったレッドシューズ海野君もいました。海野君も同い年なのでとても気が合いました。)に挨拶を交わしてから全日本の控え室に入り、馬場さんのスーツケースを開けてリングシューズや試合用タイツなどを揃えて馬場さんが試合出来る準備をしました。
  83. 後楽園ホールの控え室に入り、一通り馬場さんの試合用具を揃えてからは、セコンドのやり方を教わりました。
    選手入場の際のエスコートからリングインの流れと、セレモニー等の身の回りのことなどを先輩からアドバイスを頂きました。
    また、ゴングの設置や試合の流れ・各選手の控え室の確認など細かい点をアドバイスされてからいよいよ試合が始まり、セコンドとしてのデビューが始まるのでした。
  84. 試合が始まり、いよいよセコンドとしての初仕事ですが、今までのプロレスファンの立場にいた私が仕事としてプロレスのセコンドに付くとは思いませんでした。
    後楽園ホールの外国人選手の控え室に行ってももちろん言葉が出来ませんので、「レッツ・ゴー」しか言えませんが選手達は分かっているようでした。
    そしてメイン・イベントでスタン・ハンセン選手の入場の際にロープを開けてハンセン選手の入場のエスコートをした時にハンセン選手から邪魔扱いされて足で蹴飛ばされてしまいました。
    もちろんその後に先輩から叱られたのは言うまでもありません。
    何ともほろ苦いセコンド初仕事でした。
  85. シリーズが始まり、4日目にして早くも地方巡業が始まりました。
    当時の練習生は、6人もいたので合宿所残り組と巡業組に分かれまして、私は巡業組に加わりました。
    巡業で必要な荷物を前日にまとめて巡業に参加したのですが、合宿所では雑用に追われるような毎日でしたが、巡業に出ると宿泊先と試合会場の移動だけで済みましたので私達のような新弟子にはひと時の骨休みにもなるのでした。
  86. 宿泊先の部屋は、先輩方と同じですが少しいいホテルだとシングルルームが与えられました。
    大概は、練習生同士または若手レスラーとの相部屋でした。
    私は、歳も同じである小川良成さんや当時の若手レスラーだった川田さんやターザン後藤さんとの相部屋が多かったですね。
    ある時一人部屋を与えられた時にデビューしたら使おうとした技の練習を部屋の中でどたばたしたら、翌日当時のツアーマネージャーでもあったリングアナウンサーの原軍司さんが隣の部屋だったらしく、私のどたばたがうるさくて眠れなかったそうです。
    当然原さんから叱られました。
  87. 最初の地方巡業に参加した時に、確か新潟市体育館だったと思いますが、控え室で初めて憧れだったジャンボ鶴田さんが私に声をかけて下さいました。鶴田さんは、とても紳士的な対応で「新入りの人でしょ!これからもよろしく!」と、おっしゃって下さいました。
    実を言いますと、シリーズ開幕戦の後楽園ホールで鶴田さんとは、顔をかわしていたのですが他の練習生もいましたので鶴田さんも混同していたのではないかと思います。
    本来ならば後輩である私が先に挨拶をしなければならないのですが鶴田さんは特に気にすることがなく、ニコニコと笑顔で応じてくださったことに鶴田さんの人柄が表れたのではないかと思います。
  88. どこの業界でも独特の専門用語がありますが、プロレスの世界でも俗に言う隠語というものがあります。
    もともと日本プロレスの父であった力道山先生が相撲出身のせいか、プロレスの隠語の殆どが相撲用語が使われています。
    例えば「タニマチ」とか、「金星」などです。
    最も一般的な相撲用語は、「ごっちゃんです。」が、プロレス界でも同様に「ごっちゃんです。」と言わなければ先輩から叱られるのです。
    最初の頃はこの隠語に慣れるのがとても戸惑いました。例えば「北を向く」という隠語がありますが、これがどういう意味なのか次回にお話します。
  89. 前回の隠語「北を向く」という意味の答えを教えます。答えは、”いじける”とか”落ち込む”という意味です。
    プロレスは相撲社会ほど上下関係は厳しくありませんがそれでも体育会系の世界ですから先輩後輩の厳しいものがあります。
    年齢の上下関係なく先に入った者が先輩になります。
    ですから何事も先輩を押し退けて行動をすると真っ先に叱られます。
    ある時試合を終えて合宿所に戻り、夕飯を済ませてあとは寝るだけなのですが先輩方が麻雀を始めてしまったので麻雀が終わるまで寝ることが許されなかったのは正直辛かったですね。
  90. プロレスのセコンドとしての仕事は、色々とありますが失敗話も沢山あります。今回はその失敗したことについてお話をします。
    1985年4月3日山形県立体育館でスタン・ハンセン、ロン・バス組が鶴田・天龍組に挑戦するインタータッグ選手権の時でした。
    先輩からハンセンチームを控え室から呼んで来るように言われ、いざ外国人控え室に行ったら、何と控え室の場所が分からなかったのです。ハンセンのテーマソングがもう既に会場に鳴り響いているのに当のハンセンチームの居場所が分からず、もう冷や汗タラタラでした。
    さてさてどうなったかは次回にお話をします。
  91. スタン・ハンセン選手のテーマソングである「サンライズ」がなり響いているのにも関わらず肝心のハンセン組の控え室が分からずうろうろしてしまい、思わず「ヘイ!スタン・ハンセン!」と大きい声で叫びましたがますます分からない状況に陥ってしまいました。
    あまりにもハンセンチームの入場が遅かったので先輩が心配して私を探しに来て、ハンセンチームの控え室を教えて頂きました。
    既にハンセンチームは、他の先輩がリングに誘導して頂きましたが私はとても恥ずかしかったです。
  92. もう一つ山形県体育館での出来事があります。
    当日のセミファイナルである長州力VS石川孝志戦を通路で試合を見ていた時に背後から何やら大きな男が走ってくるや否や私を蹴飛ばしてリングに乱入してきたのです。
    その大男は、フリーの阿修羅・原さんではありませんか!原さんの乱入で試合はめちゃくちゃになりました。
    まさか原さんが乱入するとは思っていなかっただけにセコンドとして私は何をしたらいいかとても迷い、慌ててしまいました。
    結局先輩方が原さんを止めにかかりまして試合は無事?に終わりましたが、まだ新入りの私にとっては初めての経験でしたのでとても驚いた思い出がありました。
  93. 初めての地方巡業から東京に戻り、居残り組と交代で私ともう一人の練習生が合宿所で留守番をすることになりました。またこのときに前回の後楽園大会で負傷し、欠場をしている淵さんが合宿所に来て頂き、トレーニングのコーチもして頂きました。
    練習後はいつもと同様にちゃんこ鍋を作ったのですが、ちゃんこ鍋だけでは飽きたので特製サラダも作ったのですが淵さんは用があるらしく、特製サラダは食べずに合宿所をでました。
    帰り際に淵さんは、「俺もサラダを食いたかったなぁ。この野郎!」って笑いながら合宿所を出て行きました。
    厳しいプロレス生活でのつかの間のひと時、心身共にリラックスした期間でした。
  94. レスリングや柔道などの組み技系の格闘技の選手の特徴として耳が半分くらい割れていますが、これは別名『ギョウザ耳』と呼ばれていまして、正に格闘家にとっては勲章みたいなものですが、実際に耳がわれるというのはとても痛いのです。
    それはある夜に寝ている時に突然右の耳が痛くなってきたのです。
    私は、中学・高校と柔道を行ってきましたが今まで耳が割れた事はなかったのですが、プロレスの世界に入って初めて耳が割れることを体験しました。
    耳が割れるようになったのは、スパーリングの積み重ねでできたのです。
  95. 一日の練習も雑用も終わり、寝床に就いたある日のことでした。
    耳が急に腫れ上がりとてつもない激痛が走ったのでした。あまりの痛さにびっくりし、もう既に寝ている先輩方を起こして事情を説明すると、それがいわゆる‘耳が割れる‘と言うことなのだそうです。
    それで腫れ上がった耳をそのままにしておくと、耳の穴が塞がってしまうらしく、しばらく腫れがひくまでちり紙で耳をつめているのがいいらしいのですが、これがとても恥ずかしく、試合会場に通う時も耳にちり紙で栓をしなければならなかったのです。
  96. 耳が餃子のように腫れ上がり、腫れをひく方法を先輩方が教えてくださるのですが先輩によって意見が違うのです。
    ある先輩は、「氷で冷やせ。」というのですが、またある先輩は、「塩をフライパンで炒ってその塩で耳を熱くさせて固めろ。」というのです。
    全く逆のことを話されるのでとても戸惑いますがここは体育会系の悲しいところで発言力の強い後者の先輩の言う通りしなければならないのです。(常識的に考えると冷やしたほうがいいかと思いますが・・・。)
    プロレス社会もいわゆる体育会系ですから先輩の命令は絶対的なのです。
  97. 長い地方巡業が終わり、東京に戻って来られた先輩方ですが、疲労が蓄積されたのか先輩の小川良成さんが風邪をひき、合宿所で寝込んでしまいました。
    当時の小川さんは、まだデビュー前の練習生であり、天龍さんの付き人やら雑用やらで何かと忙しくしていました。
    まだ、シリーズが終わっていない状況の中で急遽天龍さんの付き人を一日だけ任されるようになったのです。
    天龍さんはとても優しく、楽しい方なのですがどこか近寄りがたい緊張感を感じさせてくれる方でした。その天龍さんの代理付き人として選ばれたのですが、やはり初めて大物レスラーの専属付き人になったその日は緊張感と嬉しさで一杯の日でした。
  98. 全日本プロレスに入門してから約1ヶ月が過ぎた時でした。
    同期の練習生であった二人が突然私に言ってきました。「もう全日本プロレスの人間関係が辛くてついていけないから、ラッシャー木村さんにお願いして国際軍団にいれてもらおうと思っている。」という事なのです。
    当時、元国際プロレスのラッシャー木村さんや鶴見五郎さん達が結成していた『国際血盟軍』は、全日本プロレスの軍団抗争として注目を浴びていたのですが、それはあくまでも興行の中の出来事であり、実際の国際プロレスは既に存在しないのです。しかしながら私達はまだ幼かったので本気で国際プロレスの存続を信じていました。
    そんな中で起きた練習生の造反?は、全日本プロレス内で波紋が生じたのでした。
  99. それは確か相模原の体育館だと思います。
    我々若手や練習生の鬼コーチこと佐藤昭夫さんから「練習生の二人がラッシャーに国際軍団への参加をお願いしたのはお前か?」と、聞かれたのですが私は、とぼけるようにして「私ではありません。」と答えました。結局問題の二人が酷く怒られました。
    確かに佐藤さんのおっしゃる通り、国際プロレス自体は存在していなく、興行も当然の如く行っていませんので国際プロレスに参加しようとすること事態ナンセンスですね。
    やっぱり私達が幼かったんですね。
  100. 全日本プロレスに造反?した二人の練習生曰く、「巡業先でラッシャー木村さんが寂しそうに自販機で缶コーヒーを買っている姿を見て同情し、国際血盟軍hの入団希望をしました。木村さんほどのレスラーが付き人もいないのはおかしい!」と、考えたそうなのですがこんな動機で国際血盟軍入りをした練習生はやはり幼かったのですね。
  101. 全日本プロレスに入門してから約1ヶ月が過ぎた1985年4月24日。この日は忘れる事が出来ないことが起きたのです。
    この日は、私の地元である横浜文化体育館でジャンボ鶴田さんがリックフレアーとのNWA世界選手権が行われた日なのですが、いつもの通り私は試合会場の雑用に追われていましたが、突然先輩が控え室で「佐藤昭夫さんがお前のことを探しているぞ!」といわれましたので佐藤さんがいる控え室に行ってみると、そこには佐藤昭夫さんとハル園田さんと川田利明さんが何やら深刻な顔をされていました。
    私が控え室に入るや否やハル園田さんが「佐藤が入門してから1ヶ月が経って様子を見ていたがやはり体が小さ過ぎてお前にはプロレスが無理だから明日家に帰りなさい。」と言われたのです。
    あまりにも突然の事で何がなんだか分からず、そして物凄いショックを受けたのでした。
  102. 突然の多解雇通告でショックを隠しきれない状態のままセコンドに戻りましたが、丁度そのリング上ではメイン・イベントであるNWA世界選手権『ジャンボ鶴田VSリック・フレアー』が行われていまして、涙を流しながら試合を見つめていたのでした。
    その話を聞いた同期の練習生もとてもびっくりしていた様子でしてた。
    そして帰りのバスに乗ったのでした。
  103. 試合が終わり合宿所に戻ってから直ぐに実家に電話をし、全日本プロレスを解雇された事を告げ、明日家に帰ることを母親に伝えました。親の反対を押し切ってのプロレス入門でしたがまさかこのような状態で家に帰るとは思いもしませんでしたのでショックを隠しきれず、泣きながらの電話でした。
    その後合宿所の人達が集まり、私の歓送会がささやかながら行われました。
    先輩の川田さんは涙を流しながら私を慰めて頂きました。
    そして歓送会が終わり、各自の部屋に戻っていよいよ合宿所最後の夜を迎えたのですがそこで信じられないことが起きたのでした。
  104. 合宿所での最後の夜、同期の練習生が私の所に来て言うのです。「佐藤君!もうこんな生活は耐えられないから俺達2人は今晩合宿所を出るから後は、頑張ってね!」と、そしてお互いの電話番号を教えあって2人の練習生は、こっそりと合宿所を抜け出したのでした。
    そう、この練習生は数日前に全日本を造反し、国際血盟軍入りを表明した2人でした。
    全日本プロレス内での生活に対して耐え切れずに去ってしまったのです。
    そして翌朝を迎えたのでした。
  105. 翌朝、寮長であったターザン後藤さんが逃げ出した練習生のことに対して私に聞いてきましたが「私は何もしらない。」と、とぼけてみせました。私自信逃げた練習生のことよりも自分自身の解雇問題のほうが重要でした。
    本来はこの日に家に帰るつもりでしたが試合の雑用係が急に少なくなったのでその代用?としてこの日も巡業に参加しました。
    試合会場に着くや否やターザン後藤さんは、馬場さんに練習生2人が逃げたことを報告されました。そして我々若手のコーチとして面倒をみてくださっているハル園田さんが私の解雇問題について馬場さんに話て下さったみたいです。
    果たしていかに?
  106. シリーズ最終戦の4月25日。試合が終わり、帰りのバスの車中でハル園田さんから思わぬ発言が飛び出しました。それは、「今年中に体重を90Kg以上すればそのまま全日本にいてもよい!」とのことでした。
    条件付きとはいえ、全日本に残留が決まり、とても感激しました。そして思わず先輩方に向かって「有難うございました。」と、大きな声で叫びました。その瞬間、車中では大きな拍手が飛び交いました。
    二人の練習生が夜逃げしてくれたお陰で全日本に残る事が出来たのはとても幸運でした。
  107. 運よく全日本プロレスに居残ることができましたが年内に体重を90Kg以上にしなければなりませんので翌日からは毎日体重計にのるのですが、そう簡単に体重などふえるはずがありません。
    何せ練習のほかに色々と雑用に追われてしまう毎日です。同期の小川良成さんもなかなか体重が増えずに悩んでいて、小川さんと私ではどちらが先に目標の体重に到達するか?と、先輩方の話題になってしまいました。
    練習生が少なくなってしまって余計に雑用が増えてしまったのです。
  108. 我々若手の仕事はかなり多いのです。炊事・洗濯・掃除は当然のことながら先輩方の買い物など主婦並みの忙しさでシーズオフのときはそれでも睡眠時間は、6時間くらいは取れるのですが、シリーズ始まって合宿所から試合会場まで通いとなると、睡眠時間が5時間眠れたらそれこそ天国です。酷いときなど朝の7時にやっと床に就き、起床が3時間後の10時というわけのわからないこともありました。
    こんな生活のなかで体重増加はとても苦痛でしたね。
  109. 夜逃げをした練習生の二人は、いずれも馬場さんと鶴田さんの付き人補佐でしたが二人が脱走してしまったのでその代わりの人を選ばなければなりません。私は、密かに鶴田さんの付き人を願っていましたが願いは通じず、鶴田さんにはもう一人の練習生がつき、私は最初の通り馬場さんの付き人補佐に繰り上げられてしまいました。
    馬場さんの付き人は本当に大変で、サムソン冬木さん曰く、『馬場さんの付き人をやるんだったら俺は全日本を辞めるぞ!』とまでも発言されているのです。
    いかに馬場さんの付き人が大変であることが物語っています。
  110. 馬場さんの付き人で何が大変かと言いますと、仕事量が多いのです。
    例を一つ挙げてみますと、地方巡業での宿泊先のベッドで馬場さんがまともに横になれるベッドなどそうはありません。何せ馬場さんの身長は、2m9cmですから馬場さんが普通のベッドに寝たら足がベッドからはみ出してしまうのです。ですから馬場さん専用のベッドを作らなければなりません。
    宿泊先のホテルに着いたら真っ先に馬場さんの部屋に行き、ベッドを作らなければなりません。
    ベッド作りに関して必要になるのはよくホテルの部屋にある背もたれのない椅子を持ってきて足元の高さに調整するために毛布を何枚か積み重ねるのです。
    都会のホテルでは比較的ベッド作りは簡単ですが地方のホテルではそうもいかないのです。
  111. 今回も引き続き馬場さんのベット作りに関してのお話です。
    地方の宿泊先のホテルによっては背もたれのない椅子すらない場合があるのです。
    そういう時は、ビールのケース箱を探してきてベットの足元に置き、毛布で高さを調整するのです。
    しかしながら場所によってはビールのケース箱すらもなかなか見つからない場合があるのです。そういう場合は、毛布をベットの高さまで積み上げなければならないのです。
    こういうベット作りに時間を費やすと当然練習をする時間も削られます。
    我々練習生は早めに会場入りをして練習を行なうのですが雑用が多過ぎてそれすらもままならないときがあるのです。
    馬場さんの付き人を行うと、練習する時間も削られるのは辛かったですね。
  112. 前回に引き続き馬場さんの付き人に関する書き込みをしたいと思います。
    馬場さんは、体が大きい分、身に付ける物も全て特大です。ですから当然馬場さんの荷物はとても重いのです。
    馬場さんのスーツケースはアルミ製の頑丈なつくりであり、そのスーツケースの中身は、トレーニングウェアー上下・試合用トランクス1枚・特大リングシューズ1足・試合用ガウン・試合用バスタオル・浴用バスタオル2枚・トレーニングシューズ1足・普段着(ティシャツ4~5枚、スラックス、下着等)・予備にリングシューズの靴紐2~3個なのです。
    これらの荷物を絶えず持ち運ぶのですから移動するときはとても大変なのです。
  113. 馬場さんは、身長2m9cm・体重135kgというように日本人離れの体格ですから身の回りの雑用も忙しいのです。
    専属の付き人は、川田さんでしたので私は川田さんの仕事を見て、つくづく馬場さんの付き人は大変だと実感しました。
    馬場さんがシャワーを浴びる時に背中を流すのは勿論の事で、そのほかにも馬場さんの髪を洗ったり足の爪を切ったり、パンツやズボンも履かせるようにしなければなりません。
    私も川田さんが不在のときに一度だけ付きっ切りのお世話をしたことがありましたが、本当に大変の一言でした。
    こんな時は、「早く後輩が入ってほしいな!」と思っていましたが実際に後輩が入門したのは私がプロレスを引退してから1~2年後のことでした。
    ※小橋選手や菊池選手は、私が全日本プロレスを引退してから全日本に入門しました。
  114. 馬場さんと言えばその巨大な肉体が代名詞にもなっていますが、身に付ける物も巨大サイズであることをお話しましたが今回もその巨大さについてお話したいと思います。
    普通リングシューズを新調するときに予備のリングシューズ用の紐も付いてくるのですが、勿論馬場さんのリングシューズ用の紐もあることはあるのですがリングシューズ用の紐が切れて予備の紐を使った場合には特別注文をしなければならないのです。しかしながら馬場さん用のリングシューズ用の紐もとても長いサイズなのでメーカーでも取り寄せるのが難しいのです。
    それで予備用に補足する形で普通のリングシューズ用の紐に接着剤でつなぎ合わせた予備の紐も用意しなければなりません。
    試合では1回だけリングシューズの紐が切れたことはありましたが、流石に接着剤で張り合わせた紐は使うことはありませんでした。
  115. 馬場さんのかばん持ちとして馬場さんに接している時間が他の選手より多かった私ですが家、馬場さんと話すことは殆どありませんでした。しかしながら馬場さんが私に話されたことでとても印象に残っている内容があります。
    それは、「いいか陳家!(当時何故か私のあだ名が陳家でした。)一流のレスラーになりたければ雑用を言いつけられてもそれを無視するぐらいに練習をする事だ!」とおっしゃるのです。内心、「馬場さんの雑用もしなくていいんですか?」って思いましたが、私に対してお話されたことなのでありがたく受け止めさせて頂きました。
    今となっては馬場さんとお話をすることすらできないのでとても貴重な体験だったと思います。
  116. 地方巡業は、その土地柄によって様々な体験をしましたが、巡業先で一番私が気に入った場所は、大阪でした。
    当時、全日本プロレスが使用していた宿泊先のホテルの周りには様々な店が立ち並び、おまけに我々のような練習生にも先輩方と同じシングルルームが与えられていましたので巡業先で一番くつろげるところでした。
    また宿泊先のホテルの近くには、当時の南海ホークス(現ソフトバンク・ホークス)の本拠地であった大阪球場も近くにありましたので、野球好きな大熊元司(故人)に連れられて南海ホークスVS西武ライオンズの試合も観戦したことがありました。
    ちなみに当時は、南海の門田選手が活躍していた頃で、清原選手はまだ西武には入団していませんでした。
  117. 今回も大阪についてのお話をしたいと思います。
    大阪でのプロレス会場と言えば昔から大阪府立体育会館が有名ですが、当時(1985年)は、体育館の改修工事で会場が使われておらず、大阪城ホールが主に使われていました。
    今でこそドーム球場が数多くあるので国内最大級の屋内競技場がどこなのか詳しくありません(多分、福岡ドームが最大級でしょう。)が、ドーム球場などがない1985年当時は、大阪城ホールが国内最大級の屋内競技場でした。
    大坂ホールに着いて館内を見渡してみますと、その大きさにはびっくりしました。なにしろ屋内でありながら100M級の陸上トラックがあるので思わず館内を走りたくなりました。実際に走ってみるとより館内の広さがわかります。
    しかしながら会場が広すぎるとデメリットもあります。
    我々のような雑用係りは、会場が広すぎて迷ったりもしました。
    実際に選手控え室も全日本の選手、外国人の選手、ジャパンプロレスの選手、国際血盟軍の選手の控え室が全て違うのですから控え室を間違えたこともありました。
    大きな会場は、新弟子にとっては一苦労でした。
  118. 今回は、格闘技の殿堂である『後楽園ホール』についてのお話です。
    後楽園ホールは、全日本プロレスの常設会場でもありまし、小さい会場ですので隅々まで理解してたつもりでしたがとんでもないことが起きたのです。
    実は先輩から‘阿修羅・原‘さんの控え室を探してくるようにいわれたのですが、それが簡単に見つからないのです。
    当時、阿修羅・原さんは全日本でもジャパンでも国際血盟軍でも外国人選手でもなく、全く一匹狼でしたので原さんの控え室は、リング屋さんのワゴン車が控え室になっていました。
    しかしながら流石に後楽園ホールではリング屋さんのワゴン車ではなく、ホール内のどこかの部屋にいるはずなのですがそれがなかなか見つからないのです。
    そしてやっと原さんのいる控え室をみつけることができました。
    それはホール内にある接待用の小さな部屋にいました。
    このような無駄?な雑用で練習する時間がなくなってしまったのです。
  119. 今回から北海道遠征時のお話を何回かに分けて書き込みしたいと思います。
    北海道といえばまず思い浮かべる所として‘ラーメン横丁‘が有名ですが、ちょうど宿舎近くにラーメン横丁がありましたので先輩に連れられて行きました。
    ラーメン横丁は、細い路地に何軒かラーメン屋が密集していて、どのお店の中には有名人のサイン色紙が飾られていました。
    個人的にはラーメン横丁でラーメンを食べた喜びよりも北海道に初めて来た喜びの方が大きかったです。
  120. 北海道遠征の初日、旧札幌中島スポーツセンターでの試合がおわり、選手一同は、全日本プロレスの後継者で元女子プロレスラーであるジャンボ堀さんのお父さんが居酒屋に招待して頂きました。
    選手達は試合後のアルコールが美味しいらしく、お店のなかは大変盛り上がっている中で一人だけアルコールを口にしないレスラーがいました。それは全日本プロレスのエースであるジャンボ鶴田さんでした。
    鶴田さんはアルコールを好まないらしく、真っ先に冷やしトマトを注文されて、「僕は、これが一番好きなんだ!」といって美味しそうに食べ始めました。
    今から考えますと、肝炎の症状が出ていたのかもしれませんが、当時は鶴田さんはアルコールが全く駄目な方だと思っていました。
    その日の夜はとても愉快な一日でした。
  121. 前回同様に北海道でのエピソードです。
    北海道に行った時に元女子プロレスラーの大森ゆかりさんのお父さんが全日本プロレスの後援者でもあることは前回お話しましたが、今回はその名物?親父さんのお話をします。
    娘さんのゆかりさんが女子プロレスに入門する前にお話されたらしいのですが、その内容は「逃げて帰ってきたらお前を殺すぞ!」だそうです。
    この話をきいて、あのお父さんならやりかねない。と思ったのは私だけではないと思いました。
  122. 北海道シリーズが始まって旭川に行った時にグラン浜田さんが合流しました。
    比較的背が高い全日本の選手の中での私は最も小さい者でしたが、浜田さんは私よりも背が低いのがとても印象的でした。しかしながら厚い胸板や太いももからはじき出されるパワーは流石にプロレスラーの体です。
    そんな浜田さんを見て、自分にとって物凄い繁樹になりました。
  123. 北海道の稚内市総合体育館は、日本最北端にある体育館らしく直ぐ目の前が海という所でした。体育館まで行く道はヘンピなところで道路の周辺には何もありません。(北海道の皆さん、すみません。)
    道路の街灯すらなく、周囲は夜になると真っ暗で都会慣れしている?私にとってはとても不気味に思いました。
    これもまた地方巡業ならではのひと時でした。
  124. 網走体育館で若手によるバトル・ロイヤルが行われましたが、その日は当時私と同じ練習生だった小川良成さんがプレデビューとしてバトル・ロイヤルに出場されました。
    リング上ではジャパン軍の若手選手も参加しましたが、小川さんのプレデビュー記念として参加選手による手荒い歓迎を受けていました。
    小川さんとは半年上の先輩ですが同い年でもあるのでお互いに励まし合った仲です。
    そんな同期のデビュー戦は私にとっても嬉しく感じました。
  125. すっかり北海道巡業が気に入ってしまいました。なんといっても北海道の雄大な自然と食事も美味しく、半分旅行気分でもあります。
    そんな中で網走に行った時でした。
    網走での宿泊は、網走刑務所の横の坂の上にあるホテルでした。
    ホテルに着き早速食事をしようとホテル内の食堂に入ってみると、網走名物のイカづくしでした。
    いくらイカの名産地とは言え、全ての料理にイカが入っているのです。イカ飯にイカ入れの味噌汁・イカサラダ・イカステーキと、全てイカづくしなので、思わずイーカげんにして!と叫びたくなりました。
  126. 北海道の巡業が終わり、本州に戻って再び巡業が始まりました。山形の米沢市体育館での試合が終わり、帰りのバスに乗り込む時でした。
    どこで調べたかわかりませんが、女の子からいきなりファンレターを頂きました。
    正式に全日本プロレスのメンバーとは言え、まだ練習生の立場であった私にいきなりファンレターをもらったのでとてもびっくりしました。
    嬉しい反面、恥ずかしいところもありましたが、応援してくださる人がいることがとても励みになりました。
  127. 当時の全日本プロレスは長州さんが率いるジャパン軍、ラッシャー木村さんが率いる国際血盟軍、外国人選手、ヒットマン阿修羅・原さんというように軍団抗争が複雑に行われていました。
    軍団抗争は、ファンにとっては面白いかもしれませんが我々セコンド人にとってはややっこしかったですね。何せ一試合が終わる毎に次はどの選手がどこの控え室にいるかを把握しなければなりません。
    私は馬場さんのセコンド以外にも外国人選手の入場をエスコートしなければなりません。
    試合が行われている中でくつろげるのは、試合を見ているときとジャパン軍と外国人選手との試合の時だけでした。
    ジャパン軍と外国人の試合のセコンドは、ジャパン軍が担当でしたので非常にリラックスした雰囲気で試合を見てました。
  128. 当時の全日本プロレスは、全日本、外国人、長州さん率いるジャパン軍、ラッシャー木村さん率いる国際血盟軍、阿修羅・原さんというように五つの軍団抗争もあり、一試合毎に違う抗争なので観客は飽きないと思いますが、我々セコンド人は混乱が続きます。
    次の試合は全日本の選手vs外国人で、その次は国際血盟軍vsジャパン軍というように試合毎に選手の控え室が異なってしまうので頭の中がパニック状態になります。
    それに付け加えて大きな会場になると選手の控え室が距離があり、いいトレーニング?になってしまうのです。
    極めつけは、大きな会場ではありますが冷房施設が完備されていない会場は最悪の状態なのです。
  129. シリーズが始まり各会場に着きますと、まず各選手の控え室を確認することは以前にも書き込みをしましたが、それと同じようにバーベル等のトレーニング器具を運搬しなければならないのです。
    バーベルはリング屋さんのワゴン車の中にあるのですが、100Kg以上のバーベルを運搬するのが大変な作業になるのです。
    これは大きな会場ほど大変なのは言うまでもありませんが、‘格闘技のメッカ‘と呼ばれる後楽園ホールでのバーベルの運搬も大変なのです。
    後楽園ホールはビルの5階に位置していますので運搬作業が大変です。
    当時、後楽園ホールの改修工事のため工事用エレベーターが作動していて、そのエレベーターを使用していたことがありましたが、工事のない日曜祝日にはわざわざバーベルを持って階段の上り下りをしなければならないので、後楽園ホールで試合があるときは嫌でしたね。
  130. プロレスの試合の中には場外乱闘になるほど荒れる事はよくありますが、場外乱闘になった時に我々セコンドは、観客の安全を守りながら実は自分達も怪我をしないようにうまく逃げ切らなければなりません。
    またリング上で選手が興奮してセコンドに技をかけることはよくありますが、(スタン・ハンセン選手のラリアートの犠牲になっているセコンドがよくみられます。)乱闘騒ぎになっても新弟子はリングにあがるな!って指示されていました。
    やはり体を鍛えているプロレスラーが暴れ出したら我々セコンドさえもたちうち出来なくなってしまうのです。
  131. プロレスに使われるリングのロープは、ワイヤーにゴムチューブを巻いているのですが、これがロープに振られた時に横わき腹に当たり、これが結構痛いのです。
    入門当初の時に慣れないロープワークの練習をする度に横わき腹にロープが擦れてとても痛みが生じるのです。
    先輩方は、何気なくロープワークをされますが、我々新人はまずロープに慣れるように反復練習を積み重ねなければならないのです。
  132. 今回は、巡業先でのほのぼのとしたお話です。
    巡業先での試合を終えて、ホテルで馬場さんと一緒に食事をしていた時です。
    宿泊先のホテル内にあるレストランに行った時、既に鶴田さんが食事を済ませて部屋に戻ろうとしたときにすかさず馬場さんが「ジャンボの飯代は俺が払っておくよ。」と話され、それを鶴田さんは馬場さんにお礼を言って部屋に戻った光景をみて、馬場さんと鶴田さんのほのぼのとした師弟愛を感じました。
    馬場さんという存在はやはりプロレス界のドンであり、全日本プロレス内では父親的な存在であるというのを鶴田さんとの何気ないしぐさを通じて感じました。
  133. 今年天才レスラーであった三沢さんが亡くなりましたが三沢さんとの思い出を何回かに分けて連載します。
    プロレスラーの新弟子は、専ら基礎体力トレーニングと受身の練習が主なトレーニングメニューですが実践的な練習(スパーリング)も時折行われるのですが、初めてにスパーリングの相手は何と当時タイガーマスクであった三沢さんが相手でした。
    勿論勝てる相手ではありません。三沢さんはいきなりドロップキックを放ち、すかさずフロントスープレックスで私を投げた後にセントーンとサンセットフリップを決められてわずか数分で3カウントを取られました。
    正直言ってセントーンとかサンセットフリップなんてたいした技ではないと思っていましたが、それが大きな間違いでした。この技を受けた瞬間に、グヘッーというような感じで息が詰まってしまいました。
    プロレスの技というのは見た目以上に威力があることを思い知らされました。
  134. 今回も三沢さんとのエピソードです。
    1985年6月21日の日本武道館で行われたタイガー・マスク(三沢さん)対小林邦明戦で膝を怪我し、長期欠場に余技なくされてしまいました。
    膝の怪我のため、試合は欠場でしたが遠征は我々と一緒に帯同していました。
    そんな時に遠征先の体育館の横にグランドがあって三沢さんのリハビリを兼ねて50M競争をすることになりました。
    三沢さんの膝は、だいぶ回復したとはいえ、足を引きづいて歩くような状態でした。
    三沢さんとは以前スパーリングでやられたリベンジ?のチャンスが来たと思い、内心勝利の確信で漫然の笑みで三沢さんとの50M走をしたのですが、それがとんでもない誤算でした。
    当時の三沢さんの体重が103Kgぐらいでなおかつ膝を負傷しているのに関わらず私より遥かに速く走るのです。
    かつてジャンボ鶴田さんが怪物という異名で恐れられていましたが、鶴田さんに限らずプロレスラーは皆怪物であることが証明されたひと時でした。
  135. 今回も三沢さんとのエピソードについてお話したいと思います。
    三沢さんがタイガーマスクとして活躍されていた時に試合(85年’6月21日日本武道館 対小林邦明戦)で膝を負傷し、長期欠場になったことは前回お話しましたが、ようやく三沢さんの膝が回復して試合に復帰することになった1985年8月31日、この日三沢さんは会場である国技館に行く前に道場に来られて、リング上で入念に体の調整をしていました。ちょうどその時に私がローリングジャーマンスープレックスとタイガースープレックス85の練習台になりました。
    そして試合が始まる時の入場の際に私が三沢さんをリングまで先導し、そして試合ではタイガースープレックス85で見事小林選手を破り、インターJrのベルトを巻きました。
    私は今でもこのときの感動が脳裏に焼きついています。
    そして三沢さんが時折試合でタイガースープレックス85を出す度に「自分が実験台になったんだ~!」って自己満足をしています。
    改めまして三沢さんのご冥福をお祈り申し上げます。
  136. 再びプロレスに関するエピソードです。
    試合用のリングと道場に設置されているリングは微妙に違っています。
    まずロープの硬さも試合用のほうが柔らかいのでロークワークもさほど横わき腹にはすれませんのでロープワークがしやすいし、マットも受身がしやすいのです。
    ですからシリーズが始まると、試合用のリングで練習ができるのが楽しみでしたね。
    試合用のリングといえば当時試合用には2個のリングがありました。
    一つは、テレビ用とも言うべきもので通常よりやや広めでマットが赤と青のツートンカラーのリングと、マットが青のリングがありました。
    2台のリングを積んだトラックが巡業中はフルに運搬されていましたね。
    ちなみに当時のリング屋は、和田京平レフェリーと仲田龍リングアナウンサーと現在新日本プロレスのレフェリーであるレッドシューズ海野とノアの福田レフェリーも当時はリング屋でした。
  137. 今回は、道場での練習内容についてお話したいと思います。
    我々新弟子が先輩方からいわゆる‘かわいがり‘と呼ばれるしごきがあります。そのしごきとは別名『ラッパ』と呼ばれるものですが、リング上で寝技のスパーリングの時に先輩の腹で私達の鼻や口を塞ぐ事ですが、当然私も先輩方から『ラッパ』を散々受けました。特にターザン後藤さんの大きなおなかが私の口や鼻を押さえるのですからたまったものではありません。
    練習ではいつも厳しい先輩方でしたが、私生活ではとてもよくして頂き、特にターザン後藤さんには面倒を見て頂きました。
  138. 今回から何回かに分けて来日外人レスラーのエピソードについてお話したいと思います。
    まずは白覆面の魔王とも恐れられた「デストロイヤー選手」です。
    試合会場があるスーパーマーケットの屋上(多分今は無き‘忠実屋‘)での特設リングを設けての試合でした。その日は試合の途中で雨が降ってきて試合は一時中断されたのですが、私はてっきり試合が完全に中止になったと思いこんでしまい、次の試合を控えているデストロイヤー選手に試合中止の事を告げてしまったのです。それを聞いたデストロイヤー選手はそのまま宿舎に帰ってしまいました。
    その後先輩方から酷く叱られたのは言うまでもありません。
    翌日、見知らぬ外国人が控え室で私の姿を見るなりなだめてくれました。
    最初はそれがデストロイヤー選手の素顔とは知らなかったのですが、話をしてみてデストロイヤー選手と知ったのです。
    私は素直に昨日のことを謝罪したところ、デストロイヤー選手は片言の日本語で笑って許してくれました。
    あの時のデストロイヤー選手の笑顔を見てとても救われました。
  139. 今回は、暴走戦士ロードウォーリアーズに関するお話です。
    巡業先で本州から四国へ移動の時でした。当時はまだ瀬戸大橋がありませんでしたので外国人選手と日本人選手は皆フェリーで移動でした。まさに呉越同舟という感じで外国人選手選手とはプライベートの時間を身近に接することができます。
    そんな中で甲板で剛竜馬さんを挟んで外国人レスラー達は何やら雑談をしていた様子でして、私は何気にそばを歩いていたら剛さんに呼び止められました。
    実は、剛さんは外国人レスラーにサブミッションを教えていて、チキンウィング・フェース・ロックをウォーリアーズに教えようとした時に運悪く?私が近くを通ったので捕まってしまい、私が実験台にさせられました。
    ホーク選手のぶ太い腕が私の頬骨をきつく締め上げるのです。それがとても痛くて泣きそうになりました。それは技の痛みというよりも力任せで締め上げられたのでその痛みでしたね。
  140. 再びウォーリアーズについてのお話です。
    ある地方会場で、試合前にウェイト・トレーニングをしていた時でした。
    ベンチプレスをしていた時に何とか100Kgを持ち上げていたのですが、そこにホーク選手が来てバーベルを軽く持ち上げ、私が苦労して持ち上げた100Kgのバーベルをいとも簡単にショルダープレス(腕を上方に挙げる運動)をしてしまうではないですか!
    それをみたら流石にウォーリアーズの前ではウェートトレーニングはできないと思いました。全日本プロレスでもパワーファイターであるターザン後藤さんでさえもウォーリアーズの前では恥ずかしくてウェイトトレーニングが出来ないとおっしゃっていました。
    しかしホーク選手はそのあと、トレーニングの仕方などを教えて頂きました。
    心優しくて力持ちのウォーリアーズでした。
  141. 今回はスタン・ハンセン選手に関するエピソードです。
    リング上では大暴れをするハンセン選手ですが、プライベートでも親分肌のハンセン選手はある意味での外国人選手のボス的存在でもあります。
    それは選手達の面倒見がいいのではなく、ハンセン選手自らガキ大将という感じなのです。
    とにかくハンセン選手は明るくてはしゃぎ過ぎるほど控え室では騒がしいのです。ハンセン選手が体育館内に入ってくるときは、直ぐにわかるほどですからね。
    そんなハンセン選手とテリーファンク選手との試合は大荒れで、控え室までも暴れる始末でしたからね。
    二人とも陽気なビックテキサンですがいざ暴れだすと、抑えられないほどギャップが凄かったです。
  142. 今回もスタン・ハンセン選手にまつわるお話です。
    私が全日本プロレス入門時に私のほかに4人の練習生がいました。
    そのなかのひとりは、父親がアメリカ人であったためハーフなので顔は外人顔をしていました。
    その練習生に真っ先に声をかけたのがハンセン選手なのですが、ハンセン選手はてっきりアメリカ人と思い、声をかけたのですがそのしかしながら顔はハーフでも日本生まれの日本育ちなので、英語は全く喋れませんでした。
    英語が喋れないことは分かったハンセン選手は真っ赤な顔をしていました。その顔はとてもかわいらしいのです。
    不沈艦ハンセン選手もリングを降りれば普通の人なのです。
  143. 今回はテキサス・ブロンコ ザ・ファンクスにまつわるエピソードです。
    人気兄弟コンビのザ・ファンクスの私生活はそのままビックテキサンというかんじです。何せこの兄弟の時間のルーズさは外国人レスラーの中でもピカいちです。
    ザ・ファンクスは我々全日本のメンバーと一緒に巡業をするのですが、決まった時間に来たためしがありません。
    あまりの時間のルーズさで、ザ・ファンクスには集合時間より1時間早く集合時間を告げても結局は皆と一緒に集まります。
    最悪なのは集合時間になってもまだ現れず、兄弟の部屋に起こしに行ってやっと起きるのです。
    しかも部屋は散らかしっぱなしで、部屋を片付けなければなりません。
    この兄弟のだらしなさにブロディイ・ハンセン選手はつまづいて、抗争に発展したらしいですからね。
    まさにビックテキサンという感じです。
  144. 今回は、ダイナマイト・キッド選手とディビー・ボーイ・スミス選手の話題です。
    この従兄弟コンビはいたずら従兄弟としても有名であり、我々若手が控え室に行く度に被害にあうのです。
    ある日小川良成さんが従兄弟コンビの控え室に行くや否や腕と背中に落書きをされたこともありました。
    私が受けた仕打ちは、キッド選手が入場しやすいようにリングのロープを挙げていたところ、ニヤッとしながらいきなり腹蹴りをするのです。
    またこのコンビは比較的背もプロレスラーとしては高くなかっただけに同じくらいの背丈の私に対しても好感的に接して頂き、トレーニング等を教えて頂いたのを憶えています。
  145. 今回は、人間魚雷 テリーゴディ選手にまつわるエピソードです。
    後楽園ホールで試合を終えたゴディ選手がシャワーを浴びていた時です。いきなり地震が起きたのですが、アメリカでは地震が殆どないので地震初体験だったゴディ選手は、なんとシャワールームからそのまま逃げるように後楽園ホールの1階まで降りていってしまったのです。勿論生まれたままの格好で、バスタオルで腰をまいて逃げていったのです。
    地震大国日本ならではのエピソードです。
  146. 今回は、インドの猛虎 タイガー・ジェット・シン選手のお話です。
    タイガー・ジェット・シン選手と言えばそ狂人的なファイトで泣く子も黙る恐ろしいイメージがあります。
    私も全日本プロレスに入った時は本当にシン選手は怖いと思い、控え室でシン選手のリング・コスチュームであるターバンを恐る恐るたたんだ思い出があります。
    しかしながら狂人的なファイトとは裏腹にプライベートではとても物静かな紳士でしたね。
    それから控え室手ではシン選手がヒンズー語で私に話かけてきたのですが、英語なら多少とも理解ができますが流石にヒンズー語は分からず首をかしげながら分からないことをジェスチャーで伝えたほどです。
    そんな紳士であるシン選手が控え室の扉を開けた瞬間にはいきなり狂い出すのは流石としかいえませんでしたね。
  147. 私が全日本プロレスに所属していた時は、新日本プロレスとUWFしかありませんでしたので合宿所では新日本プロレスのTV中継はあまり観た記憶がありませんでした。
    しかしながら毎週プロレス雑誌が合宿所に送られてきて他団体に関する情報も入ってきて、なにかと新日本プロレスと比較されていましたので選手達はそれなりに意識していたことでしょう。
    またUWFの道場が合宿所の近くにありましたが全く接点はありませんでした。
    それから当時の全日本プロレスは長州さんが率いるジャパン・プロレスと業務提携をしていました関係でよくジャパン軍と接していましたが、先輩からは「ジャパン軍の選手達とはあまり仲良くするな!」と注意されましたが所用でジャパン軍の控え室に行く度に何故か良く歓迎されました。特に新倉選手や小林邦明選手とはよく可愛がられました。
  148. ジャパン軍の人からいつの間にか私の事を‘おむすび山’って呼ぶようになりました。当時まん丸い顔で坊主頭だったのでそういう風に見えたのかもしれません。名づけ親は新倉選手です。あだ名が浸透してしまい、私の本名を知らないジャパン軍の選手もいましたね。
    プロレスを引退してから数年後に新倉さんのお店に行った時も新倉さんは私の名前を憶えていなくて、あだ名を言って思い出してくれましたからね。
    新倉さんとは今でもたまに会っていますね。
  149. すっかりジャパン軍の人たちには‘おむすび山’のあだ名が浸透しまい、全日本のメンバーには何故か’チンケ(陳家)’というあだ名で呼ばれるようになってしまいました。
    このチンケというあだ名の名付け親は石川隆さんでした。
    あだ名で呼ばれるのは親しまれてる証しでもあるのですが逆に本名を忘れられてしまったのは少し寂しい感じもしました。
    ちなみに外国人選手からは普通に’ボーイ’って呼ばれましたね。
  150. 私は馬場さんの付き人でしたのですが、本当に馬場さんの付き人は大変であり、とても気を遣ったのですがそれに比べて鶴田さんの付き人は対照的にとても気が楽といいますか雑用も少なかったのです。
    当時は、ターザン後藤さんが鶴田さんの付き人でしたが後藤さんの代行として1回だけ鶴田さんの付き人を経験した事があります。
    試合後、宿泊先の鶴田さんの部屋に行ったところ、鶴田さんからは「試合用のハイソックスとタイツだけを洗うように。」と言われました。
    馬場さんの身の周りの雑用に慣れていましたので鶴田さんから洗濯物を渡されたときは正直言って『これだけでいいんですか?』って思ってしまいました。鶴田さんは体育界系にみられるような上下関係はあまり好まないと言うことを知ってはいましたが本当にそうなのだな。っと感じさせて頂きました。
  151. 世田谷区の砧にあった全日本プロレスの合宿所は、今考えてみても非常に汚いところのようでした。
    この合宿所は、鶴田さんが購入した家を合宿所にしているのですがとても古いせいか色々と問題がありました。
    ある夕食時に居間でちゃんこ鍋を食べていた時に、突如天井にゴキブリが現れたのです。しかもちゃんこ鍋の真上にゴキブリが出現したので合宿所内は大騒ぎです。
    先輩方は直ぐに部屋に逃げ込み、ゴキブリの処理は当然一番下であった私が担当になったのです。
    リング上では強そうなレスラーも流石にゴキブリには弱かったみたいですね。
    そうそう台所ではねずみも出現したことがありましたが、どうなったかはご想像にお任せします。
  152. 今回のお話は笑うに笑えないお話です。
    シリーズが始まり、地方巡業の中で起きたことなのですが、普通巡業先の宿泊先は全日本プロレスと業務提携をしているホテルが殆どなのですが、そこの宿泊先は確か東京から大阪に向かう途中のホテルでした。(多分愛知県か岐阜県辺り)
    そこのホテルの玄関はやたらと狭く、宿泊客も見当たりませんでした。そしてルームキーを渡されて入った部屋が全てガラス張りでトイレまでもガラス張りでした。更にベッドには怪しげな物が陳列されているではありませんか!
    そう、そこのホテルは何とラ〇・ホテルだったのです。
    会社の手違いだったらしいのですが、当時全日本プロレスのフロントマネージャーであったリングアナの原軍次さんもホテルに着いて気が付いたらしいのです。
    恐らく大の男が集団でラ〇・ホテルに泊まったのは後にも先もこれ一度だけではないでしょうか?
  153. 前回宿泊先のホテルがラ○ホテルだったということをお話をしましたが、流石に馬場夫妻は宿泊せずにそのまま次の試合会場がある大阪に行ってしまいました。
    残された?われわれは仕方なしにラ○ホテルに宿泊しました。
    私は小川良成さんと相部屋だったのですが、ラ○ホテルの相部屋はお互いに緊張して私は結局便秘になってしまいました。
    おそらく小川さんも同じような精神状態ではなかったのではないかと思います。
  154. 今回のお話は巡業先の宿舎で起きたことをお話をします。
    小川良成選手がデビューした翌日は久しぶりの休日でした。場所は、岩手県の都城で陸中海岸が目の前に見えるほど休日にはもってこいの場所でした。
    長州さん率いるジャパン軍の人たちは陸中海岸の周辺の観光を楽しんでいったのですが、それに引き換え我が全日本軍はある選手の提案でちゃんこ鍋を作る羽目になってしまったのです。
    私たち合宿組は年がら年中ちゃんこ鍋を食べているだけにせめて巡業中はちゃんこ鍋は食べたくないのですが、上からの命令は逆らえずしぶしぶとちゃんこ鍋の準備をしたのでした。
    岩手県都で行われ休日返上?のちゃんこ鍋大会の言いだしっぺの〇〇選手でしたが、他の選手もせっかくのオフなのに不満をもたらしていました。
    われわれ新弟子の小川良成選手と私が〇〇選手に言われて買出しのためにしぶしぶと宿舎のエレベーターに乗っているときに不平をもたらしているある選手が偶然にエレベーターに乗り込んできて、私たちを見るなり「〇〇選手は頭に来るな!〇〇選手のことをファッキュー〇〇と言いなさい。」と言われ、しぶしぶ小さな声で「ファッキュー〇〇」と言わざるを得ませんでした。
    もちろんその選手は笑っていました。
  155. 地方巡業は、特製の大型バスで移動をするのですが私の席は決まって一番前の席なのです。
    それはバス内にあるビデオの接続をしたり、クーラーBOXの中にあるジュースを先輩方に配ったり、またバスが駐車場に停まるときにバスから出てバスの誘導をしたりするために新弟子はいつも一番前の席に座らなければならないのです。
    ちなみに馬場さんご夫妻の席も通路を挟んで一番前に座られていました。それから何故かいつも私の横には鶴田さんが座っていました。
    二人の巨匠が常に私の横にいらっしゃるのですからバスの中でもいつも緊張していました。
  156. 1985年8月12日。この日は私にとって忘れない一日です。
    この日はシーズンオフでいつもの通り道場で合同練習が行われていまして、練習も終盤に差し掛かった時でした。
    先輩レスラーがそれぞれ必殺技の話をしていたときに、突然天龍選手がリングに上がり私に言うのです。「俺のラリアートを受けてみろ!」と言うや否や私をロープに飛ばし、帰りざまの強烈なウエスタン・ラリアートが私の喉元にもろに入り、瞬時に喉元に‘グギー‘という鈍い音がして私は頭からリングのマットに叩き付けられました。
    やっとの思いで立ち上がったのですが喉に異常が発生したのでした。
  157. その時、瞬間的に私の喉元にグギッ!と鈍い音がして、私は頭からリングに叩き付けられました。
    それは、プロレス生命どころかひょっとしたら一生を駄目にしてしまうほどの怪我でした。
    それはプロレス引退後に病院に行ってわかったのですが、私の喉の軟骨が折れてしまったらしいのです。
    幸いにして3ヶ月安静して喉は回復したのですが、私にとってはもう駄目かと思ったほどでした。
    何せ喉を怪我してからは呼吸困難に陥り、食事をする時もものが喉に詰まってしまうのです。
    私は結構スタミナには自信があり、きついプロレスの練習も難なくこなせたのですが、喉を怪我してからは呼吸困難になってしまうわけですから練習についていくのがとても大変でした。
    そんな地獄を経験した午後はジャンボ鶴田さんに誘われて、鶴田さんのご自宅に遊びに行き、鶴田さんからポロシャツを頂きました。
    ちなみに鶴田さんから頂いたこのポロシャツは今でも大切に保管しています。
    それから鶴田さんに六本木にあるシャブシャブ屋に連れて行って頂きました。
    そしてこの日は、日本全国が震撼した一日でもあったのです。
    そう、1985年8月12日は日航機JAL123便が群馬県の御巣鷹山に墜落した日でした。
    この日はそれぞれ思いのある一日ではなかったと思います。
  158. 首の軟骨を骨折してからの生活は正に地獄の日々でした。
    何せ呼吸困難に陥ってしまうし、食事をするときにも喉に詰まって咳き込んでしまい、声も出せない状態が続いてしまうのです。
    不幸はさらに続き、その後の練習でカウンターのショルダータックルを受けたときに先輩の肩が私の喉元を直撃し、さらに輪をかけて喉に異常をもたらしたのでした。
    そしてさらなる不幸が待ち続けていたのでした。
  159. 厳しい練習と雑用の多さによって殆ど休めることがなく、その上体重を無理やり増やすために食事の量を多めにとらなくならなければならない状況に体が悲鳴をあげてきました。
    練習が終わる度に吐き気をもたらすようになり、毎日吐いていました。しかも日に日に酷くなり、食後も直ぐにもどすようになってしまったのです。
    そして遂に病院へ行くことになってしまったのです。
  160. 毎日の異変で遂に18歳の若さで胃カメラとバリウムをのむ羽目になってしまいました。
    馬場婦人の元子さんから指定されたクリニックは確か虎ノ門にあったと思います。
    バリウムをのむことになって仲の良かったターザン後藤さんも一緒に付き添いでいってくれました。後藤さんもちょうど胃の調子が思わしくないらしく、ちょうど胃腸の検査をしたかったらしいです。
    人生初めてのバリウムの味は、ヨーグルトをより強くしたような味であり、喉元に違和感を感じながらなんとか飲み込み、そしてベッドに横たわって検査をしたのでした。
  161. 苦しいバリウム検査が終わって数日後に胃カメラを呑むことになりましたが、これが地獄としか言えない苦しみでした。
    現在の胃カメラは技術も進歩したおかげでさほど苦しむことが無く比較的楽に検査ができますが、当時の胃カメラは太いコードの先にカメラが装着されていましたのでそれを喉に通すのですからどれだけ苦しいかわかりません。
    検査時間は10分位なのですがその10分が地獄でした。
    18歳で胃カメラを呑んだり、バリウムを呑んだりして本当に大変でした。
    余談ですがプロレスをやめてから約10年後も胃カメラを呑むはめになりましたが、そのときは技術が進歩していたのでさほど苦痛でもなく、楽に検査ができました。
  162. 体の状態が極限に達しても練習と雑用は相変わらず多く、精神的にも限界に達してきました。
    試合から終わって合宿所に戻ってからの食事の準備と片付けと洗濯等に追われる毎日でした。
    雑用が終わって寝ようとしていても私の寝るところは部屋ではなく、応接間でした。
    これは先輩から指摘されて、『新人が自分の部屋に寝るのは贅沢だ!』という命令で泣き泣き応接間で寝ざるを得ませんでした。
    しかも応接間では先輩方が麻雀を行っていてなかなか寝かせてはもらえず、うとうととすると先輩から怒鳴られるのでした。先輩曰く『先輩より早く寝るとは何事だ!』
    こんな状況が続くと体はますます悲鳴をあげ、ついに宣告を受けざるを得ませんでした。
  163. 体の不調は更に続き、練習中のウエスタン・ラリアートを受けて喉にダメージが残り、ついに声が出なくなり、呼吸困難に陥りました。
    そして胃腸も悲鳴をあげ、毎日もどすようになってしまいました。
    ここまで来るとプロレスを辞めて逃げ出したい気持ちもありましたが、親の反対を押し切って無理やりプロレスに入ったので意地になっていました。
    毎日寝床に就くたびに泣いていました。
    今でもあの時の苦しみを思い出すたびに涙を流さずにはいられません。
  164. 体の不調が更に悪化して、ついに来るべき日がきたのです。
    馬場婦人である元子さんからの休養指令がおりて、自宅に帰らざる状況になりました。
    さすがに身も心も限界に達していましたので休みたかったのですが、それよりも不安が遮ったのはもうプロレスには戻れないかもしれないという事でした。
    しかしながら自ら進んだ道ですから結果はどうであれ最後まで全力で頑張ろうと思いました。
  165. 自宅の休養宣言は、事実上のプロレス解雇でした。
    身も心もぼろぼろの状態で自宅に帰りました。
    親の反対を押し切って無理やりプロレスに入門したのですが、ここにきてさすがに限界に達しました。
    何度も悔しさと悲しみで多くの涙を流し、とても無念な思いでした。
    そして1985年10月21日についにその日が来ました。
  166. 1985年10月21日両国国技館は、NWAチャンピオン リック・フレアー対AWAチャンピオン リック・マーテルにおける史上初の世界統一戦として話題になった日がくしくも私がプロレス界から引退する日でした。
    この日お世話になった先輩方に最後の挨拶をするために自宅から両国国技館に向かったのでした。
    国技館につくや否やまず馬場さんご夫妻に挨拶をし、続いて各先輩方に順に挨拶を済ませました。
    ちょうど天龍さんに挨拶に行ったときに天龍さんがいきなり現ナマ(数万円だと思います。)を出して私に渡してくださいました。
    そして全日本プロレスの皆様方に挨拶を済ませてから今度はジャパン軍の控え室に行って挨拶をしようと長州さんのところに行ったところまたしても長州さんから数万円の現ナマを頂きました。
    天龍さんや長州さんの凄い餞別に思わず涙してしまったのです。
  167. 全日本プロレスの一員として最後の会場である国技館での試合観戦も終わり、プロレス関係者に全て挨拶を済ませて国技館を出たときに思わず目に涙を浮かべざるをえませんでした。
    高校2年生の時からプロレス入りのために全てを投入してきましたが、夢実現とならず残念な結果になってしまいましたが私自身この間全身全力で走ってきたことに後悔はありません。
    昨今プロレスの暴露本が出たり、スター選手の死も重なり、プロレス界全体が低迷していますが私自身プロレスを通じて学んだことがあり、むしろ感謝の思いでいっぱいです。
    私にとってのプロレス生活はわずか半年でしたが、この半年間の思い出を胸に今後の人生に大きく前進したいと思います。
    1985年10月21日国技館を出たときの空は満月の夜でした。
    『完』

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